二戸市浄法寺町の工藤一千代(かちよ)さん(90)は第2次世界大戦末期、家族で移り住んだ樺太(からふと)(サハリン)から命からがら逃げ延びた。旧ソ連との地上戦では多くの日本人が亡くなり、兵士はシベリアに抑留された。終戦から76年の15日、工藤さんは生き抜くために子どもやお年寄りを見捨てざるを得なかった当時を思い「皆、沖縄や広島・長崎、靖国(神社)を拝むでしょうが、私はずっと北に手を合わせます」と悼む。

 

「この世の地獄」生き抜き

 一千代さんは4歳の頃、家族で浄法寺から南樺太に移住した。看護師見習いとして働いていた1945(昭和20)年、14歳の夏。休暇で戻った港町・恵須取(えすとる)の自宅上空に、飛行機の編隊が現れた。爆撃と艦砲射撃が始まった。

 父は徴兵されており、身重の母ヤスさんと4人のきょうだいを連れ、裏山に逃げた。夜も間断なく油脂(ゆし)焼夷(しょうい)弾が降った。市街地から約4キロ離れた自宅は難を逃れたが、街は壊滅した。

 ソ連は同8月9日、日ソ中立条約を破棄し日本領に侵攻。多くの民間人は経緯を知らず、一千代さんも米軍の攻撃と思っていた。

 一千代さん一家ら住民は船で内地(本土)に脱出しようと、樺太山脈を越えた港町、内路(ないろ)を目指した。数百人が一つの列を成して歩く。通る集落は燃えているか、既に灰になっていた。

 遠くの空に白い機影が見えた。爆音とともに超低空から掃射が始まる。風圧で木々がグンとたわむ。列を離れ、草むらや木立に駆け込む。母親たちは狙い撃ちされる荷台から、わが子を次々に路上に放り投げて逃がした。一千代さんも愛馬の下に身を潜める。のぞき見ると、手回し式機関銃を操る兵がはっきり見えた。

 大勢亡くなったに違いないが皆、無言で列に戻り歩き始めた。親を亡くし、立ち尽くす子もいるが、構う人はいない。やがて道端には座り込む老人や子どもの姿が目立ち始めた。「口減らし」のため、置いて行かれたらしい。弱った子を谷に突き落とす人も出始めた。「この世の地獄だった」。一千代さんは前だけ見て歩き続けた。家族を守り、生き残るため。

 

待っていた強制労働

父田口七太郎さん、母ヤスさんらと写真に納まる工藤一千代さん(右上)=1939(昭和14)年ごろ、樺太

 第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年8月、家族で移住した樺太(からふと)(サハリン)で、ソ連軍の攻撃に遭った工藤一千代(かちよ)さん(90)は、内地(日本本土)へ脱出する船が出る東岸の港町内路(ないろ)を目指していた。

 母と4人きょうだいを連れた一家は、栗毛の牝馬「あねっこ」に荷車を引かせ、厳しい道のりを歩いた。川の水を飲み、食料は燃え残った家から盗んだ。わずかな穀物と菜っ葉を煮て、その辺にあるみそや、しょうゆを入れた。食べられるだけ、ましだった。

 内路行きの汽車が出るまちに着いた。あねっこと別れねばならなかった。悪路を歩き通した愛馬の蹄鉄は落ち、体中傷だらけ。せめて身軽に、と馬具を外して放したが、何度言い聞かせてもついて来る。最後は心を鬼にして石をぶつけた。「ありがとう」と叫びながら投げ続け、戸惑うあねっこを置いて走り去った。

 貨車の一角に身を落ち着ける場所を確保したが、当時3歳の弟の姿がない。見ると、さっきまで弟がいた辺りにリンゴ箱を積んで男たちが座り込み、いくら頼んでもどかない。ばかにしたように笑っている。

 弟が死んでしまうと思った一千代さんは、駅にいた日本の憲兵にすがった。憲兵は長靴を鳴らして男たちの前に立ち、軍刀を抜くと「立てーっ」と一喝。リンゴ箱の下にはやはり、弟がいた。一千代さんは安堵(あんど)とともに、女子どもだけで逃げ延びる悲哀を感じた。

わびた日本兵

 数日後、汽車は急に止まった。ソ連兵が取り囲んでおり、乗客の多くが、ソ連参戦にこの時気づいた。一千代さん一家は再び歩いて、自宅がある西岸の恵須取(えすとる)へ戻るよう命じられた。

 帰路、数百人の日本兵が戦闘服にゲートル巻きのまま、ソ連騎馬兵に促され歩いてきた。すれ違いざま、1人の兵士が「ごめんな。俺たちが弱かったから苦労を掛ける」とわびた。一千代さんは驚きながら「兵隊さんは悪くありません。どこに行くんですか」と返した。それを聞きとがめたソ連兵が突然、空に向け銃を撃った。会話はそれきりだった。一千代さんは彼らが向かった方角から、シベリアに連行されたのだろうと考えている。

 恵須取の自宅に帰ると、徴兵されていた父田口七太郎さんが戻っていた。

 現在の二戸市浄法寺町から一家で渡った35(同10)年前後の樺太は、製紙業や炭鉱、ニシン漁で景気が良かった。大工だった七太郎さんも一旗揚げようと、日ソ国境の北緯50度線近く、間宮海峡に面した恵須取に農園を開いた。

 自宅そばには、夏はスポンジ状の湿地帯になるツンドラ原野が広がっていたが、肥えた農地もあった。長女の一千代さんは学校から帰ると、両親を手伝いジャガイモやカボチャ、大麦や小麦を植えた。冬は氷点下30度を下回る。豚を1匹つぶして小屋につるせば一晩で凍り、肉を刃物で削いでタンパク源とした。厳しい環境下でも幸せだった。

夏の石炭運び

 無事を喜び合った一家だったが、郷里に戻ることは許されず、ソ連占領下の新たな暮らしが始まった。

 一千代さんは従軍看護師に憧れ、見習いとして働いていた恵須取の大平炭鉱病院で再び、働き始めた。産科を担当し、医師も患者もロシア人。親しくなると、小柄な一千代さんは「マーリンケ ターシャ(小さいターシャ)」と愛された。酸っぱい黒パンには慣れなかったが毎食、肉やバターにありつけた。産婦たちは栄養失調で小柄なのだと、母乳をカップに絞って一千代さんに飲むよう勧めた。言われるまま、脂が浮いた母乳を何度も飲んだ。

 穏やかに思えた占領下の暮らしは、病院を辞めると一変した。強制労働が待っていた。夏場は1日10時間の石炭運び。2階建てビルのような石炭の山が並び、シャベルを使って、港へ続くコンベヤーに積む。冬はマツ材を運ぶ馬そり道を造るため、10メートル近く積もった雪を1人で1日5メートル先までかく。氷点下35度。吹雪が視界を奪い、まつげを凍り付かせた。小ぶりなサメを丸ごと野菜と煮込んだ塩味の「サメ汁」を食べるのが唯一の楽しみだった。

温かい丼ご飯

 終戦から約3年、一千代さん一家はようやく本土帰還が許された。

 北海道・函館へ向かう日本の引き揚げ船で、丼ご飯が振る舞われた。それまでずっと、泣くのを忘れたかのようだった一千代さんは温かい丼を手にした途端、おえつした。「帰れるな。これで帰れる」と泣きながら食べた。

 郷里の浄法寺に戻ってから、家族が樺太の思い出を口にすることは一切なかった。新たな暮らしを立てるので必死だったし、一千代さんも看護師として80歳まで働いた。ただ、母ヤスさんは晩年、突然「船が出る時間だ。間に合わない」と言いだすことがあった。父も母も語り得ぬ思いを抱いて亡くなったのだろう。

 一千代さんも年を重ね、往時を思うことが多くなった。毎年、終戦の日には樺太、シベリアに向かってこうべを垂れる。「家族以外、誰も助けられなかった。兵隊さんも、なんぼか生きて帰りたかっただろうに。生きるために、人が人を見殺しにするしかなくなる。それが戦争です」