第2次世界大戦後の1952年に生まれた盛岡市鉈屋町の高橋龍児さん(69)は、幼い頃に常に感じていた空腹感を今も忘れられずにいる。食糧事情が悪い中、祖母のヨネさんが苦心して米を集め、家族を守った。往時を振り返り、感謝の念を募らせる。

 家は代々、米穀店を営んでいたが、食糧事情の悪化に伴い終戦までに廃業した。店には木の大きな升があり、常に米が詰まっていたと聞いたが、当時5歳ぐらいだった龍児さんは信じられない思いがした。

 日課は、和だこ職人の父武さんと自宅前の大慈清水で水をくむこと。父はてんびん棒を担ぎ、おけに二つ。龍児さんは一つ運んだ。その水で母静子さんが、かまどでごはんを炊いた。一汁一菜で、おかずは目刺し1匹だったり、ニンジンを刻んで入れたおからやワカメなど。子どもには物足りなかったが、食糧難でもなぜか、台所の湯気が絶えることはなかった。

 ヨネさんが苦心し、知り合いの農家から米を調達していたらしかった。当時の農家は商家などを訪ね、便所から肥料になるし尿を集めて回っていた。どうもその時、多くの農家と親しくなったようだ。商いを通じて育てた農村の人脈も生かしただろう。ヨネさんは腹を減らす龍児さんのため、のりのおにぎりを作ってくれることもあった。新聞紙に包まれ、インクも付いていたが、うまかった。

 すきっ腹を抱えてうろついていると、近所のそば店のおかみさんがよく、かけそばをごちそうしてくれた。このおかみさんも祖母の友人だ。ヨネさんは、あちこちに顔が利いた。

 銀行勤めをしていた静子さんは帰りが遅く、龍児さんは心細い思いをした。ヨネさんも忙しい時には、近所の人が、とろろごはんを食べさせてくれた。龍児さんは母恋しさと、空腹で泣きながら食べた。寂しい思い出に重なるため、龍児さんは60年以上たった今も、とろろごはんが苦手だ。

 家の敷地には、入り口の直径約1メートル、深さ約2メートルで大人2人が身を隠せる防空壕(ごう)があった。入ると暗く、湿っていた。「悪さをすれば閉じ込めるぞ」と脅かす怖い祖母だったが、龍児さんにはやはり、最も身近で頼れる存在だった。

 龍児さんは「戦後生まれの自分にとって、戦争体験とは空腹感だ。そして当時の記憶は、ヨネばあちゃんへの感謝と切り離せない」と思いをはせる。