〝闘い方〟仲間と共有

重症筋無力症
③患者会
家族や患者仲間が応援する沿道に手を振りながら、にこやかにゆっくりと足を運んだ。
「あんなに来てもらっているとは知らず、びっくりした。病気になってからのことを思い出した」。小野寺ひろ子さんは6月、一関市で東京五輪の聖火ランナーを務めた。「難病でも前を向いて進むことができる」。難病患者みんなのために走った。
思いの原点は2003年、最初に入院した盛岡市の岩手医大の病室にあった。
女性の重症筋無力症(MG)患者の7人部屋。治療の血液浄化はベッドに数時間寝たままで、治療中は昼食などを取れなかった。
自然に患者同士の協力が生まれた。動ける人が動けない人のためにご飯をおにぎりにして枕元に置いたり、売店から果物を買ってきたり。朝夕の一緒の散歩も日課になった。
「同じMGでも症状はいろいろある。みんなもんもんとした気持ちだから、話をすると共感できた。励まし合うことで治療に向かう勇気をもらえた」
意気投合し、退院後も電話や手紙で交流が続いた。2年後の05年6月、病院で知り合った6人で花巻市内の温泉に1泊旅行をした。予約名は「プレドニン盛岡」。治療薬のステロイドの名前から取った。
この旅行が、翌年のMG患者会・全国筋無力症友の会岩手支部の発足につながった。「きびだんごの会」という通称を付けた。温泉旅行で「これを食べて元気になろうね」と約束しあったのが、きびだんごだった。小野寺さんが支部長になった。
県外の患者や医療関係者と交流が始まった。親睦だけではない患者会の役割を知った。病気の正しい理解と啓発、国の難病対策への組織的な働き掛け、患者支援の大切さだった。
MG患者は経済的な問題を抱える人が少なくない。症状は改善と増悪を繰り返す。病気の特性から周りに無気力などと誤解され、仕事を続けられず収入減に陥るケースがある。小野寺さんは相談を受けるといつも「すぐに辞めないで」と話してきた。
自分は病院勤務のときに発症し、支援制度も知らされないまま退職した。「患者は弱い立場だから辞めないといけないと考えがち。でも職場が勝手に退職させることはできない時代。傷病手当や雇用保険、障害年金など使える仕組みはある」
長女の鈴木あずささん(36)は患者の相談に熱心にのる母親を見てきた。「病気になったのは自分が県外の大学1年、弟が中3のときだった。お金がかかる時期に収入が減り、苦労したと思う。だからお金の心配をする。〝闘い方〟を教えている」と察する。
小野寺さんは医療の格差も感じてきた。「全国ではMGの確定診断に2年も3年もかかったり、数十年も昔の治療法を受け続ける人がいる」。医師に恵まれたという自覚から、希望する人には主治医への橋渡しを手伝ってきた。
2年前、世代交代を図るMGの全国会の代表に選ばれた。しかしコロナ禍に直面。満足な取り組みはできなかった。昨年就労を再開して多忙になったこともあり、今月で退任した。
全国会は役員に残り、岩手支部では引き続き支部長。各種の難病患者会をまとめる県難病連の業務執行理事も担う。活動はMGの枠を超え、難病全般に広がっている。
目標は明快。「難病を抱えても独りぼっちにならず、前向きな治療をして、楽しい人生を送ってほしい」。今の自分があることに感謝し、患者に尽くす。
※「小野寺ひろ子」の「ひろ」は、「まだれに黄」。
全国筋無力症友の会 指定難病・重症筋無力症の患者会として1971年に結成。山崎洋一会長(秋田支部)。全国に岩手(2006年7月設立。会員36人)を含む計26支部。本部は京都府。会員は患者、家族、医師、民間企業などの計約1300人。患者同士の交流イベント、フォーラム、医療講演、要望活動、機関誌発行などを行う。14年に治療・研究奨励基金を設立し、同症の基礎研究や臨床研究を行う医療関係者に奨励金を授与している。