2021.03.05

⑮被災地を歩く 洋野町八木地区

【2011年3月12日】 大津波で水産加工会社などが被災し、用具類が散乱した
【2011年12月6日】 がれき撤去を終え、いち早く復旧した水産加工会社
【2017年5月4日】 八木北港近くに建設中の防潮堤。同年12月に完成した
【2019年2月26日】 宅地や道路が最大約2メートルかさ上げされたJR陸中八木駅付近
【2021年2月19日】 復旧した水産加工会社や町営八木魚市場が並ぶ八木港周辺
【写真=2011年3月12日、11年12月6日、17年5月4日、19年2月26日、21年2月19日】

高台避難の重要性継承

 2011年3月11日。眼下に漁港が広がる洋野町役場種市庁舎付近の高台から目にした津波の威力を忘れることはできない。潮が引き、底があらわになった海。南方から押し寄せた波の壁は一気に漁港を覆い、木造の小屋や漁船、防波堤の巨大コンクリートをも押し流した。

 その翌日、八木地区へ。水産加工会社が壊滅的な被害を受け、漁具や用具類が辺り一面に散乱していた。果たして復旧までどれほどの時間が必要なのか想像さえできなかった。

 あれから10年。水産業の核となる町営八木魚市場や水産加工会社は早々と再建し、低地の住宅地を守るように防潮堤が整備された。ハードが復旧・強化された一方、住民の防災意識に変化はあるか。これまでの取材でも連帯感と防災意識の高さを感じてきた地区を2年ぶりに訪ねた。

八木港を望む高台で日本海溝・千島海溝沿いを震源とする地震津波に警戒を強める蔵徳平会長(右)と蔵義浩副会長=洋野町種市

 「地震が来ればまた来たかと身構えてしまう。防潮堤はできたが常に恐怖心はある」。津波で家が浸水した下道豊子さん(73)は不安が拭えない様子。釜石市で津波の犠牲になった姉夫妻のことも頭から離れない日々だ。

 1896(明治29)年と1933(昭和8)年の三陸大津波で多くの犠牲が出た八木地区。毎年欠かさず、3月には慰霊祭を行い、高台避難の重要性を地域で共有してきた。震災の犠牲者はなく、その自負が住民の復興への気持ちを後押ししてきた。

 次なる災害への意識も根強い。住民が共通して口にするのが、日本海溝・千島海溝沿いを震源とする地震津波だ。昨年内閣府が公表した想定によると、最大規模のマグニチュード(M)9クラスの地震に伴う津波は同町で高さ19・9メートル。地区にとって震災の津波をはるかに超える。

 八木北地区自主防災組織の蔵徳平会長(84)は「千島付近が震源ならば(南から来た震災の津波とは異なり)正面から津波が来る。10メートル程度の防潮堤は避難の時間稼ぎにしかならない」と警戒を強める。

 防災を学ぶため宮古市田老を視察したり、津波防災の講演会を開くなどこれまで積極的な活動を展開してきた。蔵義浩副会長(77)は「地震が来れば津波、避難という意識を年配者から若者までが持っている」と強調。防潮堤に頼らず、高台へ逃げる。その意識に揺るぎはない。

 気掛かりなのは、加速する少子高齢化。八木地区の人口は北町、南町の両地区合わせて、震災前の822人(11年2月末時点)から620人(21年1月末時点)と約24・6%も減少した。新型コロナウイルスの影響で地域活動は1年間ストップした状態。地区会長も務める蔵会長は「連絡は回覧のみで、住民の要望を聞くこともできない。会話する機会がなくなり、災害があれば大変だ」と不安を隠さない。

 地場の事業者にとっても人口減の影響は深刻だ。JR陸中八木駅前で3代にわたり理容店を営む坂本修一さん(54)は「働く場所も少なく、若い人は離れてしまう。この地域でどこまでできるかと思ってやってきたが、想定以上に厳しい」と商売への影響を口にする。

 近年は町を代表するウニやアワビをはじめ、漁獲量全般が低調との声も聞かれた。地域を取り巻く現状は厳しさを増す。災害への備えを強めるためにも基盤となる地域コミュニティーの活性化は不可欠。災害に強く、住民が生き生きと暮らす地域の再興を信じて見守りたい。

 (経理部・佐藤光)

【2011年3月12日】 大津波で水産加工会社などが被災し、用具類が散乱した
【2021年2月19日】 復旧した水産加工会社や町営八木魚市場が並ぶ八木港周辺
【写真=2011年3月12日、21年2月19日】
 

 洋野町八木地区の復興状況 町中心部から南へ約10キロの八木北町、八木南町からなる漁業が盛んな集落。震災の津波で町営八木魚市場や水産加工会社などが被災し、住家被害は全壊10棟、大規模半壊11棟。死者、行方不明者はなかった。津波対策として地区北側に海抜12メートル、延長約420メートルの防潮堤を整備し、JR陸中八木駅周辺の宅地を海抜8・6メートルまでかさ上げした。