⑭被災地を歩く 野田村中心部
街並み復旧も「寂しさ」
久慈市から野田村へ向かうと、サケの稚魚がモチーフの「のんちゃん」像が、久慈支局勤務時代と同じように出迎えてくれた。記者としても社会人としても「甘ちゃん」だったあの頃、ほぼ毎日通った中心部への道。今年2月、7年ぶりに再訪した。
ランドマークの愛宕(あたご)神社の鳥居を背に、中心部を眺める。土地区画整理事業で整備された道路の両脇に何軒もの住宅が立ち並び、国道45号からつながる道路は避難路としての利用をにらみ、広く直線的になった。
2017年に開所した村保健センターは、3階建ての建物外壁に「東日本大震災 津波浸水位4・7M」と記され、もう津波で村民の命を失うまいという、強い決意を感じる。

2階部分は、震災後に合併した近隣の本町・旭町町内会の公民館としても利用されている。2代目会長の狩野(かりの)祐司さん(76)を訪ねた。昨年は新型コロナウイルス感染症の影響で行事が軒並み中止となり、公園や河川清掃を実施した程度。「集まる機会がないから、町内会報で地域のことを知らせているよ」と連帯感の維持を図る。
だが、少子化の影響は顕著。昨年4月に学習用品を贈った町内会の新1年生はわずか3人だった。「子どものいる世帯が少ない。道路で遊ぶこともなくてね」と寂しさがにじむ。夕暮れの村内を歩いても、下校する姿はまばらだった。
震災後、鳥居近くの仮設店舗で営業していた小野商店は、プレハブのまま数百メートルほど国道側に移転した。夫とともに店を切り盛りする小野寿美子さん(73)は「年末年始は高台の新町から買い物に来てくれるけど、普段はバスの時間に合わせるのも難しいしね」とぽつり。高台の住宅団地に移った高齢者らが、気軽に行き来するのが難しい現状がうかがえた。
復興事業の完了に伴うコミュニティーの分断は、多くの村民に共通する思いだ。村体育協会長の関本満さん(68)は週1度、村体育館で「e-スポ広場」を開き、高齢者の健康増進と集いの場づくりの一助を担っている。
村内各地区から参加者が集まり「元気に楽しんでもらうことが一番」と目を細めるが、「人がばらけてしまって寂しさを感じる。三陸道が完成して通過される村になったら大変」と心配も大きい。
村は現在、中心部を含む2カ所で、働きながら余暇を楽しむ「ワーケーション」環境の整備を進める。交流や地域課題解決を通して、村に愛着を持ってもらう狙いがある。小田祐士村長は「10年かけて『復旧』した。ここからまた地域みんなで進まなければ」と言い聞かせた。
取材の最後に、鳥居付近から海沿いの十府ケ浦公園に足を延ばす。遊具広場には子どもたちの笑い声。パークゴルフコースは、駐車場の空きがないほどの盛況ぶりだ。近隣市町村住民の来訪もかなり多い。青写真だった未来図が、実際の風景としてそこにある。感慨深さと同時に月日の経過をかみしめた。
「みんな」とは、決して村民だけではない。交流を続ける団体や新たな「野田村ファン」を、移住や交流人口増加につなげたい。描き手が多いほど、未来図は鮮やかになると信じて。
(整理部・志田芽衣子)

野田村の復興状況 東日本大震災前は1674世帯4831人が居住。震災で家屋515棟が損壊し、村民37人が犠牲になった。2021年1月末現在の人口は1667世帯4168人。防災集団移転促進事業で3団地、98戸分を整備。土地区画整理事業は村役場東側の約13ヘクタールが対象(うち住居区域は6・6ヘクタール)。都市公園事業で津波防災緑地の十府ケ浦公園(約19ヘクタール)も整備された。