⑩被災地を歩く 大槌町赤浜地区
守り育てたい結束の力
色を失った小さな集落。雪をかぶったがれきが道の両側を埋めていた。焦げた臭いは津波火災の事実を伝えていた。余震が怖く、海の方に足が出なかった。がれきの中で何かを探す家族がいたが、声を掛けることもカメラを向けることもためらわれた。2011年3月16日。大槌町赤浜の残影がはっきりとある。

10年を迎える。大規模工事による高台とかさ上げ地に新築の住宅や災害公営住宅が建つ。防潮堤は6・4メートルと他地区より格段に低く大槌湾の蓬萊島がはっきり望める。劇的に姿を変えた集落で住民生活は平時に戻った。形の上では-。
「夢を見たり、うなされたりすることが多くなった」。町中央公民館赤浜分館長の神田義信さん(75)が近況を打ち明ける。
震災当時も同じ役職だった。地震直後から避難を呼び掛け、避難所開設の先頭に立った。11年6月に取材で初めて会ったときは、赤浜小の体育館で避難所運営などに忙殺されていた。
11年秋に分館長を退いたが、後任の体調不良で3年前に復帰。地域づくりの新しい核となった自治会の実務も引き継いだ。「せっかく始まった活動をなくせないと思った。次にバトンを渡すのが自分の役目」
神田さんは小学校統合で希薄になった子ども・PTAと一般住民の連携を再構築したいと考えている。震災ストレスは現在進行形。それでも「赤浜のために」という気概が背中を押す。
地区を歩いても、津波の猛威が直接分かるものは見当たらない。観光船が乗り、保存運動が続いた民宿も解体間近。将来的な風化も心配になる中で、肝心のコミュニティーづくりはこれからが正念場になる。
人が歩いていない。訪れる度、そう感じてきた。
90人超に達した犠牲者と復興の遅れによる人口流出ばかりが原因ではない。住宅の再建場所が元の隣近所と関係なく、ばらばらになった影響が挙げられる。商店は1軒も無くなった。
「『井戸端』がなくなり寂しさに包まれている。どんな形であれ、住民が交流できる場があればいいけれど」。赤浜3丁目のパート東久恵さん(61)は現実を嘆き、郷愁を深める。
新型コロナウイルスが事情を複雑にしている。昨年来、地区の参集型イベントは軒並み中止となり、3月の慰霊祭も2年連続の取りやめが決まっている。復興事業の終結とコロナが相まって「仕事がなくなっている」(70歳の建築大工男性)という声も漏れる。
住民たちの接する機会は減っている。心強いのは郷土愛の強い若者の存在だ。
赤浜3丁目の町観光交流協会職員小国夢夏(ゆか)さん(23)は学生時代から地区行事に積極的に参加する。「20代が10人弱ぐらい住んでいる。何かあれば連絡を取り合って手伝う。赤浜の良さは、住民の距離間の近さ」と笑顔を見せる。
「普段はばらばらのようでも、いざとなれば結束する」。伝統芸能の代表も、養殖の漁業者も異口同音に口にした。
震災後の組織的な避難生活や、国と県に敢然と「ノー」を突きつけた防潮堤論争は、赤浜の長所が発揮された象徴的な場面だった。
土台は営々とした住民同士の関わりから育まれた。赤浜らしさの価値は不変。これからも一人一人の手で守り育ててほしい。
(編集委員・四戸聡)

大槌町赤浜地区の復興状況 東日本大震災前は320世帯、約950人が居住。震災で約150戸が全壊・流失し約20戸は火災にも見舞われた。死者・行方不明者は消防団員を含む93人。2021年1月1日現在の人口は292世帯、622人。防災集団移転促進事業で3団地、宅地計84戸(災害公営住宅を含む)を整備。19年10月に県内沿岸部で最後となる災害公営住宅が完成した。土地区画整理事業の事業面積は7・7ヘクタール(うち宅地は4・4ヘクタール)。住民主導で防潮堤高を震災前と同じ6・4メートルに決め、宅地造成地は全て震災の浸水域より高い海抜14・5メートル以上とした。赤浜小は13年4月に新・大槌小(現大槌学園)に統合された。