2021.02.25

試練の連続、筆が救い

書き続けてきた手記を持つ久保秋悦さん。自宅の壁には2015年の入居時に書いた決意文が飾られている。久保さんの左は書きためた手記のファイル=釜石市上中島町
書き続けてきた手記を持つ久保秋悦さん。自宅の壁には2015年の入居時に書いた決意文が飾られている。久保さんの左は書きためた手記のファイル=釜石市上中島町

網膜色素変性症

久保 秋悦くぼ・しゅうえつさん(73)=釜石市上中島町

 

②東日本大震災

 釜石市両石町の自宅に一人でいたとき、東日本大震災は起きた。テレビが津波の予想高を「3メートル」と伝えていたことを覚えている。同町を守る両石湾の防潮堤高は6・4~12メートルだった。

 「念のため」に前年に亡くなった母糸子さんらの遺影と位牌(いはい)を2階に上げた。財布や保険証を入れたリュックを背負い、高台の公園に向かった。生まれ育った古里の地理は頭に入っていたから、目が悪くても自力で逃げることができた。

 海を見つめた。「墨のように真っ黒な津波が、一瞬で防潮堤を乗り越えた。引き波の後を見たら町が無くなっていた。自宅の辺りは海のようだった」。同町を襲った津波の高さは22メートルを超えた。

 数日後、市内の中学校の体育館で本格的な避難所生活が始まった。両石町の被災した住民と一緒だった。目が不自由なことを知る近所の先輩が、食事の時など何かと気に掛けてくれた。

 不自由さは否めなかった。特にトイレに困った。「夜の消灯後に行こうとすると、見えないから寝ている人たちの頭をよく蹴飛ばした。電気や水を流す所も分からず、慣れるまでは大変だった」

 実弟と義姉の行方不明を聞かされた。仙台市内の家族は無事だったが、家は流されていた。

 不特定多数が集まる避難所での生活は、迷惑を掛けると思っても誰かの助けが欠かせなかった。「どこに何がある」という情報の欠如は行動の制約と気疲れにつながった。災害弱者が一般の避難所で過ごす難しさを痛感した。悲しくても泣くこともできなかった。

 震災から2カ月たち、市内で最初に整備された内陸部の仮設住宅に入った。網膜色素変性症(色変)の合併症である白内障を発症した。つらい、切ない、むなしい。時としてネガティブな感情にさいなまれた。心境を便箋や半紙につづるようになった。

 「あの日、あの時を回想、夜が嫌いで、亡き人々が夜空から見守っている様で‥」

 「右往左往の日々の中、名古屋NPO障害者センター 釜石の方々 助けられ、失望の中から病への挑戦」

 「これから三年目、四年目と一層きびしい想定外の心模様、試練が押し寄せて来そう そんな被災地釜石の今です」(原文のまま)

 仮設住宅近くの復興住宅に2015年に引っ越してからも、毎日のように執筆した。震災だけでなく、社会のありよう、好きなスポーツ、料理のことなど思いつくまま文字にした。

 色変の進行とともに、字形は以前より崩れている。それでも「読む」よりは「書く」方が楽。難しい漢字を使いこなす知的さも変わっていない。

 「試練試練の連続を乗り越えるために書いてきた。全てを書いて気持ちを外に出すと、すっきりできた。客観的な判断ができるようになった」。引き出しにはファイルにとじた手記が整理して収められている。長く離れて暮らす3人の子どもたちに、いつか読んでほしいという。「自分がここで、こんなことを考えて生きていたという証しだから」。久保さんは願う。

 3階建ての復興住宅の最上階で暮らす。階段やエレベーターを使わないですむ1階にしなかったのは、ちゃんとした理由がある。

 「二度と津波に遭わないため。震災の地震のマグニチュードが9・0なら、将来は10・0だってあるかもしれない。不便だけれど、ここなら津波は来ないだろう」

 震災から間もなく10年になる。「忘れようにも忘れられない」。最近はトラウマ(心的外傷)のせいか、朝まで眠れない日が増えている。

 

 東日本大震災の視覚障害者の被害状況 日本盲人福祉委員会の報告書などによると岩手、宮城、福島の被災3県で犠牲者(関連死除く)は計97人。高齢のために逃げ遅れたケースが多いとみられ、報告書は高齢の中途障害者対策の重要性を指摘する。トイレ問題は「水も食べ物も控え、トイレに行くことも我慢してしまう傾向は特に強く、体調に変調をきたしてしまう人も少なくなかった。避難所にいたたまれず自宅に被害があっても戻ったケースが相当数に上った」と分析。連絡手段が主に張り紙だったため、情報入手が難しかったことも指摘する。視覚障害を含む本県沿岸12市町村の障害者手帳所持者の死者・行方不明者(12年8月現在)は計439人。

 

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