岩手師範学校卒業後、東京の大学で法律を勉強していた父は1943(昭和18)年、学徒出陣のため一関市の自宅に帰ってきた。その姿をはっきり覚えている。私は、物心ついてから初めて会った父が怖くて大泣きしたのだった。

 父の出征中、私たち家族は庭を壊し、近所の人たちと一緒に畑にした。カボチャ、ジャガイモ、大根、ササゲなどを植えた。

 入学前の子どもも、できることを手伝った。害虫取りや作物を運んだりして働く喜びを感じた。近所にいる1人暮らしの高齢者にお裾分けする煮物を運んで、分かち合いの人間関係も学んだ。

 母は教員で、夜も製紙会社の女性工員さんたちに教えていたので帰りが遅い。食べ物は、祖母が素材が乏しい中で手作りした。

 農家の方に分けてもらった大豆はみそにし、梅干しやラッキョウ漬け、サンマの保存食、がんづきなど何でもこしらえた。サトイモのずいきも食べさせてもらった。砂糖が手に入らず、干し柿や干し芋が甘味料代わりになった。どれも、今考えると体に良いものばかりだ。

 風呂は木造で、釜で沸かした。薪と水はあるが、せっけんは配給頼み。風呂や洗濯に使うので、すぐになくなる。(マメ科植物の)サイカチをせっけん代わりにした。サイカチで髪を洗い、薬草になるセンブリの成分を溶かした湯ですすぐとシラミがわかなかった。

 やがて復員した父は、げっそりと痩せていた。私と弟に、お土産だとコンペイトーをくれた。甘いものに飢えていたから、うれしかった。父の愛情を思うと、今でも涙が出る。同級生には父親を戦地で亡くした人、シベリアに抑留されたという人もいた。

 家族の着物を縫い直して子どもの服を仕立てるなど当時はとても物を大切にした。隣近所で声を掛け、助け合った。これら良い面は今も、私の心の内に息づいている。戦争は憎むべきものだが、そうした記憶もかみしめている。