2021.01.08

④被災地を歩く 田野畑村羅賀地区

【2011年3月11日】 引き波であらわになった海底。右手奥の白い建物がホテル羅賀荘
【2011年3月13日】 津波が襲来し、がれきが散乱する羅賀漁港周辺
【2014年6月】 一帯のがれきは撤去され更地が広がる
【2015年10月】 工事用の土砂が積み上がり、海が見える範囲が狭くなった
【2017年4月】 県道のかさ上げ工事が進み工事車両が行き交う
【2020年12月25日】 羅賀ふれあい公園の慰霊碑を見つめる三浦康子さん。道路整備や住宅再建が進んだ地区で、支えてくれた人への感謝を込める=田野畑村羅賀
【写真=2011年3月11日、11年3月13日、14年6月、15年10月、17年4月、20年12月25日】

再生、ここからが正念場

 2011年3月11日、田野畑村の羅賀(らが)地区を望む高台から引き波を撮影した。数日後、羅賀漁港を訪れると辺りはがれきが散乱。立ち並んでいた家々は破壊され、あらゆる色が奪われた光景にがくぜんとしたことを覚えている。

 12月末、羅賀地区を訪ねた。海沿いを縫う道を通り、羅賀漁港前に立つホテル羅賀荘に入ると、仲居の三浦康子さん(75)が笑顔で迎えてくれた。

 3階まで津波にのまれた羅賀荘は震災から1年8カ月後の12年11月、営業再開を果たす。観光客や工事関係者が宿泊し、村や三陸沿岸の復興を支えた。

 新型コロナウイルス感染症による観光業の苦境や村の人口減少に不安も口にする三浦さんだが、震災10年を振り返り、抱くのは感謝の思いだ。

 「支配人は一番苦労しながら羅賀荘を復興させ、私たちを再雇用してくれた。お客さんにも『よく頑張ったね』って声を掛けられてありがたい」。思いを口にするたび涙があふれる。

 羅賀荘近くの羅賀ふれあい公園へ向かう。かつてはがれきが散乱していた一帯。県道のかさ上げ工事は終わり、近くには移転した郵便局や被災者の住宅移転用地も整備された。

 公園には震災慰霊碑が立ち「皆様の御霊(みたま)はこの里と共に いつまでもやさしい光に包まれています」とある。見つめた三浦さんは「見守っていてください」と静かに祈った。

 翌朝、津波を撮影した高台に立った。水平線から太陽が昇り、オレンジ色の朝日が羅賀荘を美しく染めた。青い海ではナマコ漁に励む男性の姿。静かな漁村は生活の色を取り戻したように映る。

 漁業者の思いは-。高台の被災者住宅移転用地の一つ、拓洋台団地に向かった。自力再建住宅や災害公営住宅、12月に開店したばかりというカフェもあり、この団地で暮らす漁業畠山忠男さん(76)と7年ぶりに再会した。

 当時は仮設住宅暮らしだったが自宅を再建。定置網漁のため高台と海を行き来する習慣にも慣れ、生活は落ち着きを取り戻したと聞き、安心した。

 ただ、漁業の現状に不安も大きい。震災前の村漁協正准組合員は351人だったが、20年度は280人まで減った。秋サケは不振が続き、磯焼けでアワビも不漁。相次ぐ台風や高波にも悩まされる。

 畠山さんは「若い人が海の仕事で生活できるだろうか。後がないぞ、と思う」と浜の将来を憂う。以前の集落と比べ、住民間のつながりが希薄になっているのも気掛かりだ。

 団地内を歩くと漁業用の作業小屋が見えた。中をのぞくと友人との語らいを楽しむ畠山大成さん(31)の姿があった。

 大成さんは震災後、父学さん(68)が働く定置網漁の世界に飛び込んだ。家も船も奪ったあの日の海。しかし、父は定置網に戻ると決め「これしかねぇかんな」と息子に語った。その一言にしびれ、父の背中を追い掛ける。

 「震災から一番変わったのは定置を始めたこと。おやじの苦労が身をもって分かった。今年は駄目な年だけど、サケが取れたときは達成感がある」と希望は失っていない。

 人それぞれに流れた歳月。ハード整備が終わり、暮らしの「再出発」を切ったが、なりわいやコミュニティーの再生は道半ばとも感じる。10年はゴールではない。ここからが地域の正念場だと再認識した。

 (大船渡支局・長内亮介)

【2011年3月13日】 津波が襲来し、がれきが散乱する羅賀漁港周辺
【2020年12月25日】 羅賀ふれあい公園の慰霊碑を見つめる三浦康子さん。道路整備や住宅再建が進んだ地区で、支えてくれた人への感謝を込める=田野畑村羅賀
【写真=2011年3月13日、20年12月25日
 

 田野畑村羅賀地区の復興状況 住家被害は全壊99戸、大規模半壊9戸、半壊14戸、一部損壊5戸の計127戸。死者・行方不明者は8人。被災者の住宅再建地は羅賀漁港近くで標高26~30メートルに切り土した羅賀東団地、標高180~190メートルの場所に造成した拓洋台団地の2カ所がある。羅賀小跡地は村漁協事務所や仮設店舗が集積。羅賀漁港を望む高台には羅賀ふれあい公園が整備され、震災の津波慰霊碑が建立された。地区の人口は2011年3月1日時点の469人から20年12月1日時点で350人と25・4%減少した。