2021.01.07

③被災地を歩く 釜石市東部地区

【2011年3月13日】 商店街の交差点を覆い尽くすように散乱するがれき
【2011年12月19日】 がれきの撤去が進みアーケードも解体された
【2014年6月18日】 商店街近くに開業したイオンタウン釜石。周辺では建物の解体が進む
【2017年4月21日】 イオンタウン釜石の隣接地に建設が進むテット
【2020年12月25日】 テットなどの整備を終えた中心商店街。一帯のハード整備は完了した
【写真=2011年3月13日、11年12月19日、14年6月18日、17年4月21日、20年12月25日】

活気ある商店街信じて

 新年2日。初売りの買い物客でにぎわう釜石市東部地区の大型ショッピングセンター(SC)イオンタウン釜石とは対照的に、取材を続けてきた中心市街地の商店街の人通りは少なかった。商店主は今、何を思うのか。

 東部地区に初めて入ったのは、震災直後の2011年3月13日。街路を埋め尽くす無数のがれき、折り重なった車両、散乱する海産物-。次々と目に飛び込んできた光景は日常のものとは思えなかった。

夕暮れの街路を歩き、震災前の商店街の光景を思い返す江刺伯さん=釜石市只越町

 あれから9年9カ月余り。商店街周辺は津波の痕跡が見当たらないほど平時の姿を取り戻している。何より、大型SCや市民ホールTETTO(テット)などの完成がまちの雰囲気を大きく変えた。

 商店街近くに11年11月から立っていた仮設共同店舗「青葉公園商店街」も今はない。仮設店舗で取材した理容えさしの店主江刺伯(ひろし)さん(67)と7年8カ月ぶりに再会した。

 只越(ただこえ)町の3階建ての店舗兼住居は津波で全壊。鉄骨の柱が残ったことから元の場所に再建し、13年秋に本設営業を再開した。歩みを振り返る江刺さんの言葉の端々に、生まれ育った地への愛着がにじむ。

 1923(大正12)年に創業した理容店の3代目。只越町商店街振興組合に加盟し、地域行事などを通じ絆を強めてきた。津波で店主が犠牲になったり、廃業や他地区に移った店もあり、かつて約50あった事業者は「10あるかないか」という現状だ。一画に復興住宅が整備され、商店街の面影はほとんどない。

 江刺さんは本設再開前から、専務理事として組合の解散手続きを進めた。子ども3人には「自分のやりたい道に進みなさい」と告げてきた。「私の代で閉めるかもしれない。(2年後の)創業100年までは頑張りたい」。現実を直視しつつ、必死に踏ん張ろうとする言葉は重く胸に響いた。

 東部地区に四つあった商店街組織のうち、唯一残る大町商店街振興組合でも加盟店は震災前の6割程度の約30に減った。理事長を務めるホテル経営の新里耕司さん(64)は苦しい現状に頭を悩ませる。

 復興工事関係の需要が落ち込む中、突如降りかかった新型コロナウイルス感染症の影響。「人口が減っていく中で、どうやっていくか。人通りをつくりたいよね」。商店街の課題認識と切実な思いに、じっと耳を傾けた。

 再建に立ち向かってきた商店主たちの苦悩は計り知れない。店主の高齢化、後継者不足の問題も避けて通れず、商店街のにぎわい創出へ正念場は続く。大型SCとの相乗効果を高めたり、テットなどが立地する利点を生かしていくための工夫も必要だろう。

 私は19年4月から陸前高田支局に勤務となった。釜石市への移動は三陸道で約40分。時間と距離は一気に短縮された。道路網整備に伴い、地域外に人や資金が流出する「ストロー現象」の懸念は高まる。ただ、沿岸各市が強みを生かし、連携して人を呼び込むチャンスにもなり得る。

 震災を経て、変貌を遂げてきた「新しい街」の活性化は道半ばと感じる。若手商業者の奮起を期待する声もあり、今こそ行政や関係団体が手を携えた支援を強めてほしい。時間はかかるだろうが、活気ある商店街の姿を信じて待ち続けたい。

 (陸前高田支局・向川原成美)

【11年12月19日】 がれきの撤去が進みアーケードも解体された
【2020年12月25日】 テットなどの整備を終えた中心商店街。一帯のハード整備は完了した
【写真=11年12月19日、20年12月25日】
 

 釜石市東部地区の復興状況 震災発生当時は大町、只越町、大渡町の3商店街振興組合と浜町1丁目商店会が活動。大町以外の3組織は解散した。市の昨年11月末時点のまとめでは、震災前にあった約740事業者のうち再建済みは約6割、休業・廃業は約3割。市は東部地区の復興を進めるため「フロントプロジェクト1」と銘打ち公共施設と商業施設の効果的な配置を進め、共同店舗やテットなどの整備を完了した。プロジェクト2は新市庁舎の整備を計画。プロジェクト3は魚河岸地区のにぎわいづくりを進める。