花巻市湯本 照井守人さん(93)

 私は1927(昭和2)年7月8日、旧稗貫(ひえぬき)郡湯本村の農家9代目長男として生まれた。42(昭和17)年4月に県立花巻農学校入学、45(昭和20)年3月に卒業した。その後同年5月より6月まで、満州綿花株式会社奉天本社に勤務する。

 郷土を部落民多くの人々に見送られ、5月2日花巻午前10時45分の列車で出発した。母は仙台まで同行した、仙台には母の姉が住んでいた、私も一緒に伯母宅に泊まる。

 5月3日仙台発午後9時5分の列車で上野に向かい、5月4日午前6時45分上野着となった。途中東京大空襲跡を通りながら、東京駅で連絡の関係上約3時間待った。

 この間においても3回くらい空襲警報発令した。5月4日東京発午後2時10分の列車で下ノ関に向かう。宇都宮以南では麦が出穂していた。静岡付近はミカンの樹が多く見られ、富士山もくっきり見られた。岡山付近では空襲警報発令、敵機も列車の窓から見えた。

 5月5日午後9時50分下ノ関に着いた。その夜は客船待合室に泊まる。5月6日は下ノ関吉野館に泊まり、この間空襲警報発令数回あり、5月7日下ノ関出港し、午後6時ごろ門司に着く、同7時35分列車で門司出発、同8時15分博多に着き泊まる。

 5月8日釜山行きに乗船、午前7時30分ごろ出港する。途中無事にて午後3時45分ごろ釜山に上陸する。釜山に上陸すると残飯を食う子どもたちがたくさんいた。釜山下船後は急行列車午後8時半発にて奉天に向かった。

 京城着9日午前9時20分、安東着は午後8時35分、奉天には5月10日午前7時10分ごろ着いた。5月11日は本社にて入所式を行った。

 列車の中は税関がいて、内地では見られない場面もあった。特に安東付近は厳重であった。奉天着後は市内に出たが、駅の通路は満人がたくさん歩いていた。いかにも満州に来た感じとなった。5月10日はわれわれ38人一行は日本館の九州館に泊まる。

 5月11日には市内見物する。一般に物価の高いことは驚いた。ただしこれは満人の店である。5月12日より湯崗子中央錬成所にて約2週間訓練となる。私は分隊長に任命される。湯崗子は満州唯一の温泉地帯であった。訓練が終わり5月26日より私は奉天本社勤務となり、同僚2人と共に本社勤務に入る。

 数日たって郷里より母危篤の電報が届いたので、その内容について上司に届けた。しかし、なかなか許可が下りない。また数日後6月8日付電報が郷里の村長名で公報電報が届き、この結果一時帰国の許可が下りた。早速一時帰国の準備をし6月9日奉天より午後8時半の列車にて帰国に就いた。釜山には6月11日正午ごろ着いた。

 帰省時は沖縄戦敗戦の状態であり、釜山で乗船するまで5日間も待った。乗船後の運航は敵機空襲警戒のため予定より運航時間も長くかかり、予定下船港以外の山口県仙崎港に入港下船した。6月16日でありこの後は列車利用となる。途中列車より蛍の飛ぶのを見たりして、6月17日下ノ関から岡山付近は麦刈り盛んで、18日富士山を見る。

 名古屋-熱海間はカボチャ開花期なり、時々空襲警報発令もあり浜松-天竜川列車不通となる。途中いったん仙台に泊まり、6月21日仙台発午後0時20分の列車にて帰宅の途に就く。

 自宅着は6月21日午後8時30分ごろであった。母にも無事、見舞いすることができた。帰宅後、数日にして国民学校手伝い要請あり、また満州に戻る情勢ではなく、6月30日より湯本国民学校に就任した。

 8月15日終戦大詔御放送拝受、本校に六原の義勇軍約50人来校しており、疎開学童と共に大詔放送を拝受した。9月18日進駐軍フレーマン大尉以下109人午前11時半ごろ花巻温泉松雲閣に到着する。

 58年4月湯本村耕地(田)土地改良事業の任に処するため、教職員を退職して4月より農業従事者となり現在にいたる。