盛岡市永井 金野清人さん(84)

 1945(昭和20)年7月14日、その日は学校が臨時休業で、国民学校(小学校)4年生の私は炎天下、母と小豆畑の草取りをしていた。

 正午ごろ、突然ものすごい地響きがして、「なんと大きな地震だごど…」と母は言いながら、私を連れて近くの竹やぶに隠れた。

 するとそこへ、平山集落の班長、猪股長兵衛さんがメガホンを片手に「空襲警報! 空襲警報!」と連呼しながら、悲愴(ひそう)な面持ちで「釜石ア、艦砲射撃イ、受げだぞ-」と告げられた。青天のへきれき、古里と隣り合わせの釜石が、いきなり戦火に見舞われたのだ。

 それまで新聞もラジオも「我方損害軽微ナリ」と伝えており、安閑としておったが、釜石の艦砲射撃のごう音に驚かされてから、日増しに不安が募り、学校で特攻隊や玉砕の話を聞かされ、各戸に竹やりが用意されると、子ども心にも戦局は重大な段階に入ったと思った。

 釜石が2度の艦砲射撃を受けてから、日頃市村(現大船渡市日頃市町)にもB29が飛来するようになり、近くの里山にまで焼夷(しょうい)弾が投下され、空襲警報が告げられると、近くの八幡神社下の防空壕(ごう)に隠れる日が多くなった。

 8月に入ると盛岡や花巻も空襲を受け、広島、長崎に原子爆弾が投下されたが、軍部はなお本土決戦を主張してやまなかった。

 先生たちはますます神国日本の勝利のため「撃ちてし止(や)まむ!」と気合をかけたから、子どもたちも敵味方に分かれて敵陣を奪い取る「8の字合戦」に夢中になった。

 相手を「鬼畜米英」と見立て、敵対心むき出しにして「8の字合戦」にのめり込んでいったのである。

 激戦の「8の字合戦」は、銃後の子どもたちの間で、敗戦の日の8月15日まで続いた。傘寿をとうに過ぎた老生、今になって、ほろ苦く思い出している。