盛岡市八幡町 佐々木タミさん(90)

 私が高等科2年を卒業した1945(昭和20)年の夏、日本の国民は誰もが勝利の日まではと、頑張っていた暑い日でした。馬の世話をしていた父が突然、「今からお上から、重大ニュースがあるそうだ」と、ラジオを持って庭に下りてきたのです。

 わら仕事をしていた母も、集まってきた近所の人たちも、何事だろうと一緒に聞き入りました。何と天皇陛下の悲しいお言葉、敗戦のお知らせでした。

 皆、土に伏して泣いていました。父は厳しい声で、日本は負けた、終わりだと、何度も何度も叫んでおりました。殺されるか、連れていかれるか。皆、覚悟せねばならないと、つぶやいた父の厳しい顔が思い出されます。

 その横で母は、子どもたちはどうなるのだろう、殺されてしまい、帰れないのでは…とただただ泣くばかりでした。日本は負けたのだから、仕方ないのだ…父の言葉でした。

 お国のためにと、3人の子どもを戦地に送った母の気持ちはどんなにかつらかったでしょうか。母は雪の日も雨の日も、毎日村の神社にお参りし、息子たちの無事を祈っていました。その姿は今でも忘れることができません。日本の強い母だったと思います。

 終戦の日は、わが家にとって、また日本中のどこの家族にとっても、悲しみで忘れられない、長い一日でした。あれから75年。早いものです。

 父母と共に流した涙は、一生忘れられないことでしょう。どこの国でも、人情という心の温かさは変わりないものなのでしょう。

 米兵さんたちは、それまで教わっていた事とは異なり、優しさも持った方が多く、日本は随分助けられました。平和の絆をつくってくれたとありがたく、感謝します。

 それにつけても、お国のためにと、潔く散って逝かれた多くの若い人たちには、今でも心よりお悔やみを申し上げるばかりです。どうか、安らかに、世界の平和をお守りください。

 幼い頃は、寒い冬に小さいこたつ一つに家族が寄り添い、母の作った温かいみそ汁を喜ぶような、貧しくも楽しい暮らしでした。また終戦後、無事に帰ってきた兄たちも交えて、家族穏やかに暮らした日々など、全てがありがたく、温かな思い出として、胸に刻まれています。