一関市大東町摺沢 加藤 安さん(67)

 両親から聞いた話です。戦時中、わが家は精米所を営み、米をついたりしていました。沿岸から魚を持った人が時々やって来て、魚と米ぬかを交換していたようです。今は健康食材として紹介されることもある米ぬかですが、当時はボソボソとして食べにくく、家畜の餌などに使われることが多かったそうです。

 また、まだ私が幼かった戦後の1958年ごろには、わが家に傷痍(しょうい)軍人が何度か訪ねて来ました。家が駅の近くにあったため、駅に降り立った傷痍軍人がやって来たようです。うちだけではなく、近所の家へも訪ねていました。

 母が「家の中へ入ってください」と誘っても決して中には入らず、縁側で食事をされていたのが印象に残っています。靴や衣服など身に着けていた物が汚れていたので、遠慮して中へ入らなかったのでしょう。食事を終えて帰る際には、私の母がおにぎりと少しのお金を持たせていたのも覚えています。

 5歳か6歳ほどの私にとって、汚れた服装の方や足を失った方が家にやって来るのは、なんだか怖いような気持ちでした。当時の幼い私にはなかなか理解できませんでしたが、成長して当時を思い返してみると、嫌な顔をせずに受け入れた両親の対応を誇りに思います。