陸前高田市矢作町 伊東シワ子さん(93)

「爆弾でいつかは死ぬと思った」と戦時中を振り返る伊東シワ子さん=陸前高田市矢作町

 1940(昭和15)年4月、近所の人に誘われて盛岡市の製糸工場に働きに出た。「きれいな着物を着たい」という思いもあった。15歳のころに戦争が始まり、旋盤で鉄砲の弾を作る紫波郡の軍事工場で働くようになった。

 寄宿舎があった同市仙北町から毎日片道1時間歩いて通った。勤務は午前8時~午後5時で、夜中まで働いた日もあった。眠くなったときはおけに張った水で顔を洗い、目を覚ました。

 休みは月に2日。洗濯する暇がなく、いつも同じ服を着ていた。屋根の高い場所にある監視所で見張りをすれば、雑炊を食べられた。仕事で肌の色が分からなくなるほど手が真っ黒くなり、石油で洗ったこともあった。冬は電球に手のひらを当てて暖まった。

製糸工場で働いていたころの伊東シワ子さん。この後戦争が始まり、軍事工場に通い始めた

 空襲警報は毎日のように鳴った。仕事が始まったと思ったら、すぐに止めて防空壕(ごう)に入ることの繰り返し。約20人が入れる防空壕の中では「港シャンソン」を歌って励まし合った。

 45(同20)年の6月か7月ごろ、仕事場から防空壕へ向かう時に盛岡の方が真っ赤になっているのを見た。「軍事工場は狙われる」と思い、爆弾で死んでもう家には帰れないだろうと覚悟した。

 8月15日の玉音放送は仕事場の事務所に集められ、天皇陛下の声を聞いてみんなで泣いた。

 終戦後は食糧難が一番大変だった。みんなが戦争で亡くなった。戦争はもうやってほしくない。

(談)