盛岡市南大通 千葉 正さん(87)

 私は1939(昭和14)4月、城南尋常小学校に入学。2年後の41(同16)年に第2次世界大戦の太平洋戦争が勃発し、米国との戦争に突入した。

 何も分からない子どもたちは、防空頭巾をまとい集団登校となった。教育方針は軍国調となり、学校も国民学校に変わり、全校生徒で国家統制の必勝歌「撃ちてし止(や)まん」を合唱し、みんなで気を入れて小さい体に乾布摩擦し、スローガンである「欲しがりません勝つまでは」を連呼した。滅私奉公の精神で教育勅語も暗唱した。

 45(同20)年4月、憧れの盛岡中に戦闘帽で身を律し入学した。当時の学校は生徒がおらず奇異に感じたが、皆は京浜工業地帯の兵器生産の軍需工場に学徒動員兵として駆り出されていた。

 いよいよ戦局は悪化し、幼少の私たちにまで動員が発令され、1カ月間盛中報国隊外山中隊が組織され、山田線大志田駅から大きな荷を背負い、徒歩で旧玉山村の外山御料牧場に徴用された。宿舎は牛舎2階でノミやシラミのいる最悪の住環境だった。皆は12歳のことであり、なすすべもなかった。

 8月15日、遂に盛岡にも終戦の日が訪れた。原子爆弾が戦争終結を告げた。国内は焦土と化し、国民の食糧は底を尽き餓死者も出る最悪の事態に直面したが、皆は知恵を出し合い互助精神で難局を乗り切った。

 米国は日本の国情を察知し、ありがたいことに敵国であった日本を人道上の見地から、占領地経済復興ガリオア基金を特別拠出し、日本の食糧、医薬品(DDT、ペニシリン、ストレプトマイシン)を支援してくれた。これら多くの恩義は決して忘れてはならない。

 私たちもグラウンド、体育館、プールを占拠した進駐軍の若い兵士とユーモアある英会話ができて、欧米の文化や素晴らしい多くの事柄を教えられた。縁があって南昌荘にいる若い米軍将校から貴重な野球道具一式を寄贈され、青少年の体育振興に多大の恩恵を受けた。

 その時、これからは友好親善で不戦の誓いを立てたことは、今もって脳裏から離れない。戦争の勝敗は別として、相互の若者の考え方には素晴らしいものがあった。