盛岡市永井 金野 清人さん(84)

 戦時中、食糧不足で非農家のわが家の暮らしは大変苦しかった。主食は麦飯か、米にほかの物を混ぜて炊いたカデ飯だった。

カデ切り器(青森県立郷土館ホームページより)

 カデ飯の中でもしょっちゅう食べさせられたのが、大根を「カデ切り器」で刻み、煮上げて水にさらし、米と一緒に炊いた大根飯だった。サクサクして歯触りはいいのだが、食べ盛りの私はすぐにお腹がすいた。

 カボチャはご飯からお汁からおかずまで、顔が黄色くなるくらい食べさせられた。それでも大根飯やカボチャご飯のおかげで辛うじて飢えをしのげた。

 太平洋戦争開戦翌年に食糧管理法が制定されて米穀配給通帳が各戸に配られ、米や麦類を自由に買えなくなった。制定後、米や麦の配給も欠配の日が多く、わが家の食事は、麦飯が減って雑炊やツメリ(すいとん)の日が多くなった。サツマイモやジャガイモやカボチャだけの食事の日もあった。

 腹の足しにするため、母は私を春は近くの野原に山菜(ワラビやフキ)採り、秋は近くの山にキノコ採りに連れて行ってくれた。ハツタケやアミタケなど、食べられるキノコはなんでも採った。近くの田んぼでイナゴ捕りもした。イナゴのつくだ煮はおいしかった。

 アンズや栗や柿はもちろんのこと、熟したクァンゴ(桑の実)は唇を紫にして食べた。

 当時、村中どこの家でも鶏やウサギを飼っていた。ときどき兄貴がさばいて肉料理を食べさせてくれた。年中飢えていた私にとって、鳥の唐揚げは最高のごちそうだった。

 少年時代、痩せっぽちの私はわんぱくたちから「ヤセハッタギ」とあだ名を付けられた。

 傘寿をとうに過ぎた今、ほろ苦く思い出される。