盛岡市茶畑 吉田 敬子さん(87)

 九十銀行の倒産で父は職を失い、やっと東京で就職。母と幼い私の3人は池袋で生活していました。1941(昭和16)年12月8日開戦。44(同19)年に入って、集団疎開か縁故疎開か定めるように、学校から各家庭に通知が来ました。近くの学習院の皇太子さま(今の上皇陛下)は集団疎開とのことでした。6年生の私は祖父母の居る盛岡へ縁故疎開にし、妹が3年生になるところでした。

 夜になると妹は「おうちへ帰る、おうちへ帰る」と泣くので、布団をかぶって寂しくて2人で泣きました。

 大慈寺(だいじじ)小では勉強のほかに縄ないの宿題があり、祖父がいつもしてくれました。秋にはイナゴ捕り。地域は田んぼばかりだったので、随分捕れました。用務員室の大釜の湯に入れると赤くなり、それを廊下のむしろの上で干しました。

 千葉先生が花巻に帰った時、駅前で空襲に遭い亡くなったことを朝礼で聞いた時は皆で泣きました。きれいな背の高い先生でした。もちろん盛岡の駅前も焼け、祖母のお友達が泣いていました。いっぱい着物を持っていたので、風呂敷に包んで背負わせてあげました。

 45(同20)年春、女学校に入ったけれど、勉強より食糧生産、教練が主になってきました。岩山の斜面にソバをまき、家からスコップをかついでの作業でした。体の小さかった私は山に着くと全エネルギーを使ってしまい、スコップの上に乗っても土に刺さりませんでした。

 見かねた先生が校庭の野菜作りに回してくださいました。お昼は封筒に入れた大豆少しと水だけでした。母と残っていた妹たちも(東京大空襲があった)3月10日前に来て、無事でした。毎日毎日、おかゆとカボチャで目が黄色になりました。父も逃げて無事でした。

 今思うとつらかったけれど、岩山で輪になって座り皆で歌ったこと、音楽の担任の先生のおかげでした。

 8月15日終戦。ソバは種よりも取れませんでした。

 これが私の戦中です。