勝利信じた「軍国少年」

盛岡市津志田中央 加藤 邦夫さん(90)

「日本は負けるんじゃないかと思っていても、口に出すことはできない怖い時代でした」と振り返る加藤邦夫さん=盛岡市津志田中央

 第2次世界大戦末期、米軍の戦略爆撃機B29が投下した焼夷(しょうい)弾は、杜(もり)の都を焼き尽くした。「落下中に開いて燃えながら落ちてくる。ざざざーっと滝のような音がしてね。今でも滝には行きたくないね」

 仙台市青葉区で生まれ育った加藤邦夫さん(90)=盛岡市津志田中央=が1945(昭和20)年7月10日、15歳のころ付けた日記にはこうある。

 《実に恐ろしく厭(いや)な日だった。何時(いつ)もの調子で漫然と構えていると、物凄(すご)い炸裂(さくれつ)音がおこる。B29だ。パッと赤い火が出て高射砲弾が破裂するも致命傷与えず。憎い野郎だ-》

 「B29の常とう手段だよ。始めに数機が飛来し油断させておいて、空襲警報が解除された後に100機以上で来た」。午前0時18分、家族と自宅の庭に掘った防空壕(ごう)に避難したが、空は一面真っ赤になり、至る所から火の手が上がった。棒の先に20~30本の縄をくくりつけた「火たたき棒」で消し止める。町内や学校で何度も訓練させられ、体は自然に動いた。

加藤さんの備忘録。飛行機や空襲のスケッチとともに「軍国少年」の心情がつづられている

 パイロットに憧れ、日本の勝利を信じて疑わなかった「軍国少年」だった。「闘魂」と記した備忘録には飛行機のスケッチ。45(同20)年1月から動員され、宮城野区の軍需工場で防空壕を掘った。4月に教員を養成する師範学校に進学後も授業はほとんどなく、男手の足りない市外の農家の作業を手伝った。

 戦局の悪化とともに、市中では食糧配給を受ける米穀通帳を持っていても、満足にコメを確保することはできなくなった。農家も売ってくれない。

 ただ、あるところにはある。軍需工場の昼飯はどんぶりに白米。煮たニシンに白菜の漬物、干した里芋の茎としみ豆腐の入ったみそ汁が出た。育ち盛りの腹を満たした。「軍国少年の務めという気持ちはあったけれど、実際はご飯につられてましたね」

 逆に農家の手伝いは思ったほど食べることはできなかった。「ご飯は白米だけど、時折麦とジャガイモが入っていた。でも、干したサツマイモの茎を煮付けにしたものは思ったよりおいしかったなあ」。慣れない農作業で体調を崩し、一時帰宅していた時に仙台空襲で被災した。

 空襲後も動員は続き、東松島市の野蒜(のびる)海岸で、軍需物資用の塩を取るため塩田作りに従事した。

 8月15日。朝からひどく暑い日だった。「全員服装を整えて外に出ろ」と教師から指示が出た。直立不動でラジオの前に並ぶ。雑音混じりで、昭和天皇の言葉を理解することは難しく、したたり落ちる汗が砂地に黒い染みをつくるのを、ただ見つめていた。

 加藤さんはその後、本県で国語の高校教員となった。退職後も専門学校などで75歳まで教壇に立った。

 「教室で授業を受けられることがどんなに幸せなことか」と生徒に向き合い続け、「知識を必要とする時に、大人に引きずり回されて何にも残らなかった。そんな時代はあってはならない」とかみしめる。