遠野市大工町 松崎ふみ子さん(86)

 昭和16年2月8日夜、地表は全て雪に覆われた白一面の道を、大人たちに手を引かれ、喜々としてちょうちん行列をしました。この時、私は国民学校1年生でした。夜の雪道に延々と勇ましい歌声を響かせ、行く手に希望の光があるのを信じてちょうちん行列は続きました。

 行列は、要塞司令部の門の前を出発し、「金鵄(きんし)輝く日本の-栄えある光身に受けて-、今こそ祝えこの明日-紀元は二千六百年、嗚呼(ああ)一億の-胸は鳴る-」。大人も子どももただ、わからないものを信じて元気に雪の中を歩きました。

 私は函館山の麓の漁師町で生まれました。当時函館山は、山全部が陸軍の要塞司令部で、山はバラ線で囲われておりました。

 「あそこはネ、高射砲が埋められていて、敵の飛行機が来たらすぐに撃ち落とすからこの町は大丈夫なんだって」といわれ私たち子どもは、立待岬の岩穴や、海辺で日がな一日遊びました。

 父は函館ドックで働いておりました。私は国民学校2年生になり姉が6年生になりました。あの鳴り物入りで始まった大東亜戦争も2年目になりました。そして父たちが造り始めたのは戦地に物資を送る輸送船になり、その頃から父たちの仕事が苛酷なものとなりました。

 ─徹夜

 数日家へ帰らず徹夜、徹夜が続きました。私と姉と交代で、三食ずつ、学校へ行く前に一番電車でドックまで弁当を届けなければならなくなりました。ドックの門を入ると、そこには見たことのない情景がありました。

 日本人ではない大きな大人の男性たち(肌の色も違う)が、3人ぐらいずつ?片方の足首を鎖でつながれて、憲兵とか?に長い革のむちのような物で追われて働いておりました。何か恐ろしくて、できるだけその場所から一歩でも遠くを、と思い建物の軒下を横づたいに父の弁当を置いて、走って門の外へ出、弁天駅から谷地頭まで電車で戻り、また走って家に帰りランドセルを背負って学校へ行くのです。

 その頃から、学校の行き帰りに空襲警報のサイレンが鳴ったら、すぐに凹地に腹ばいに伏せて、目と耳を両手でふさいで空から見えないように身を隠すように教えこまれました。

 母たちは毎日、防空演習というのをやっておりました。母たちが「あのね、男の子を10人産むとお国から表彰されるそうだよ」と話してましたね。「女の姉妹が何人も居た友達の上の姉さん2人が、満州の花嫁に行くことになって、お国から立派なショールをもらったよ」など。

 その後、私はそれまで、刈り上げという髪形をしていたのですが(前はオカッパで後ろは刈り上げ)それは敵国の髪形だ!とオカッパ頭にさせられました。生えそろうのにしばらくかかりました。

 そうこうしているうちに隣組という組織が出来、母たちはそこでモンペ作りの講習を受けました。和服をほどいてモンペにし、それをはいて真白いエプロンに、「大日本帝国国防婦人会」と書いたタスキを掛けました。

 B29が飛来して焼夷(しょうい)弾を人家の屋根にバーッと落として行ったら、母たちが屋根まで掛けたはしごの上まで、用水おけの所から一列に並んで、小ぶりのバケツに用水おけから水をくんで、リレー方式で一番上の人が火がついた屋根へ、残り少なくなった水をバシャッとかけて空いたバケツを屋根から垂らしたロープで下に下ろす。何度も何度も繰り返し訓練をする。

 次は火ばたき(竹ぼうきのようなものの先が十数本の縄で、先に結び玉を作った物)を用水おけの水に浸して、地面に落ちた焼夷弾の火をたたいて消す。今度は米英の軍艦が海から押し寄せ上陸して来る敵兵を竹やりで突き殺す。訓練の相手はわら人形だが、母たちは真剣そのものでした。

 同時に食べる物がどんどん不足して来て1週間に1回、何日分かのコッペパンの配給が始まりました。夏の夜、路地に並んだ夜店が影をひそめ、面白かったバナナのたたき売りもなくなりました。そして夜は敵機の空襲を恐れて電灯に黒い布を被せ、窓や出入り口のカーテンも黒い布にさせられました。

 ─配給

 子どものお菓子もなくなりましたが、学校の帰りに要塞司令部の門にアンデルセンの童話のすずの兵隊さんのように銃剣を持って不動の姿勢で立っている兵隊さんに声をかけると、笑顔になってポケットからキャラメルを出してくれるのでした。

 しかしドックで働く父は、ぼやくようになりました。新しい輸送船を送り出しても1週間もすると、鬼畜米英の弾丸にやられて瀕死(ひんし)の重症でドックへ帰って来るのだ、と。「もう駄目だ」というのです。内緒の声。特高とか憲兵とかに聞かれるとすぐにどこかに連行されます。実際にバラ線の張りめぐらされた函館山に近づいた男性が、特高に連行され、交番の外でむちでぶたれるのを見て恐ろしくて泣きそうになりました。

 生活に必要な物はどんどん手に入らなくなり全ての物が配給制になったが、「酒保」には何でもあるんだって、とささやかれておりました(酒保とは陸軍の物資部)。そんな中で今度は炉の中の自在かぎや火箸まで家庭から取り上げられるようになりました。

 そして母が、当時国民病といわれた肺結核に罹患(りかん)し、栄養も取れず、ロクな医療も受けられず、半年ぐらいで死にました。2歳にならない弟、5歳の妹、私は国民学校3年生になったばかり、6年生の姉と4人姉弟でした。どんどん先の見えなくなった国の在り方で父はドックを退職し、自分の郷里の現遠野市青笹町に疎開しました。

 ─赤々

 しかし周りは田ンボや畑ばかりでもわが家には食べ物はなく、母の残した着物、私たちの晴れ着が皆食べ物と換えることになりましたが、弟も小児結核になり死んでしまいました。もうこの頃、配給になる食べ物はトウモロコシの粉だけとかフスマという、とても食べることのできない物ばかりでした。

 その頃から、私たちと同じように親戚を頼って疎開して来る人が増えて来ました。5年生になって釜石の八雲国民学校から、学童疎開ということで先生と生徒2クラスだったでしょうか、校舎の一部で暮らし始めました。

 親から離れて知らない土地での共同生活で身の回りの世話をする人もなく、先生も生徒もどんな思いだったでしょう。泣いてばかりの下級生もいました。そんな時、釜石の街が米軍の艦砲射撃を受けたのです。古びた校舎に集団疎開していた生徒たちにその報が入りました。もう授業どころではなく所々に固まりとなって皆泣きだし、ついで親や家族の死の知らせが入り、私たちも一緒に泣き続けました。

 何日も仙人峠の向こうの空が赤々となり、釜石の街が燃え続けているのがわかりました。あの空の色を忘れることができません。