2020.08.03

【第4部】震災と戦災 ①翻弄されて㊤ 「#あちこちのすずさん」

転機に悲劇が重なる

 陸前高田市高田町に再建した自宅には6人の遺影が飾られていた。戦争で失った父、そして震災で犠牲となった姉一家。「戦争と震災で人生が一変してしまった。でも、これが私の人生なんだろうね…」。一人残された小岩のぶ子さん(82)は、翻弄(ほんろう)された自らの人生を振り返るように、静かに語り始めた。

自宅の一室で家族6人の遺影を見つめる小岩のぶ子さん=陸前高田市高田町

 のぶ子さんが3姉妹の次女として、東京・池袋に生まれたのは、日中戦争が長期化する中で、国家総動員法が施行された1938(昭和13)年だった。父亀五郎さんはボイラー設備の会社に勤める技術者で、記憶にあるのは出張のたびに買ってくれた珍しいお土産と、立派な門構えの自宅。

 だが41(同16)年に太平洋戦争が勃発すると、父は海軍の軍属としてフィリピンへ出征が決まり、家族の運命は転がりだした。

 

 大空襲から疎開

 45(同20)年3月、東京への空襲が始まると、一家は母イナヲさんの郷里の旧高田町(現陸前高田市高田町)への疎開を決める。長野県に学童疎開していた姉の豊子さんを母と妹の敏子さんと迎えに行き、4人がちょうど池袋駅に着いたその夜だった。

 東口の方向が炎に包まれてごうごうと燃えていた。自宅のあった西側は幸い無事。翌日、姉と東口に行くと一面が焼け野原だった。「何にも無くなっちゃった」。爆風で飛ばされたのか、電信柱にぶら下がる腕。髪が焼け焦げた女性がかっぽう着を着て座り込み、はだしのままさまよい歩く人もいた。

 「子どもが来る所じゃないぞ」。警察官に怒鳴られ逃げ帰った。あの時、それまで建物に隠れていて見えなかった護国寺の大きな屋根が遠くに見えたのが、今でも記憶に残っている。

 汽車で高田に向かったのはそれからすぐだった。4人は母の実家に身を寄せ、のぶ子さんは地元の国民学校1年生になった。

 母の実家とはいえ、おじも戦争に行き、生活は楽ではない。母は海産物を仕入れて内陸で売り歩く行商を始め、自分たちも家の水くみや農作業の手伝いをした。友達と遊んだり部活動なんてとてもできなかった。「居候ってつらいなあ」。子どもながらにそんなことを感じていた。

 父の遺骨が駅に到着したと聞き、家族で迎えに行ったのは終戦から2年ほど後。骨箱を持たせてもらうと、やけに軽い。「どうしてかな?」。開けて中を見ようとすると「そんなことをしちゃだめよ」と母に怒られた。

 父の記憶はほとんどない。あるのは母にもらった1枚の写真だけだ。出征前に自分を膝の上に乗せてほほ笑む父。「真面目な人だった」と聞かされた。父が亡くなったという「フィリピン・ミンダナオ島サンボアンガ市」との風変わりな都市の名前だけが、少女の耳にこびりついた。

 女手一つで育ててくれた母は、震災の2年前に98歳で亡くなった。死後、父から贈られたハンドバッグの中から見つかった、戦時中の海外の戦況を伝える大量の新聞の切り抜き。「私たちにそんなそぶりは見せなかったけど、母が一番つらかったんだろう」

 

 再び陸前高田へ

 のぶ子さんは高田高を卒業後に上京。東京大の事務職員として働き、「自由気まま」と語るように充実した生活を送った。姉は地元で手芸店を営み、多くの人から慕われていた。

 「高田に戻って来ればいいじゃない」。定年退職後、独り身の妹を案じた姉からこう声を掛けられ、「家族で楽しく過ごすのもいいかな」と決心。陸前高田市高田町にある姉の自宅兼店舗の隣に中古住宅を購入し、引っ越しの日を2011年4月10日に決めた。

 その直後だった。テレビに映る大津波と繰り返される「壊滅」の言葉。携帯電話に何度電話をしても誰も出ない。「どこかで生きているはず。行ってみないと分からない」。居ても立ってもいられず、妹と夜行バスに乗り込んだ。

 

◇       ◇

 太平洋戦争の終戦から間もなく75年を迎える。国内外で多くの犠牲者、行方不明者を出し、今なお取り残された遺骨の収集も行われている。それは、発生から10年目に入った東日本大震災と重なり合う。戦災と震災。岩手に生きる人たちの「災後」をたどりながら、二つの災が訴えるメッセージを考えたい。

(第4部は6回続き)

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