盛岡市津志田 松井忠さん(84)

 終戦は釜石市大渡国民学校3年の時だった。

 家の近くには大渡川が流れ、川をはさんで国鉄の釜石駅、その向かい側に釜石製鉄所がある。戦時中と今もあまり変わりはない。

 特に軍需工業都市だったから米軍の標的になって狙われたのではと思う。当時は食糧難で配給米など雑炊を食べるため並んで順番を待つが配給の食券がないと食べることができなかった。

 コメの代わりに配給になるのはサツマイモ、干しバナナ、干しアンズなどが小さな段ボール箱で食券と引き換えに渡されていた。

 家に向かう途中で、けたたましくサイレンが鳴る。空襲警報発令の知らせである。近所のラジオで「米軍のB29爆撃機が編隊を組んで釜石に向かっている、市民は一刻も早く避難せよ」と呼び掛けている。しかしB29は既に近くまで飛来していた。大勢の人が防空壕(ごう)目指して逃げたが空からの機銃掃射でバタバタと人が前のめりに倒れていく現状はまさに地獄の悪夢であった。

 防空壕に大勢の人が避難し、夏の暑い日に防空頭巾をかぶり重なるように伏せて自分を、また傍らの妹を守った。

 防空壕入り口に爆弾が投下され爆風で扉が飛ばされて無くなったことにより入り口近くから釜石製鉄所の高台に設置された高射砲がはっきりみえた。B29が釜石製鉄所上空で何回か旋回したのは海で待機している戦艦への合図だったようで、艦砲射撃の砲弾が製鉄所内で爆発、鉄骨の建物の崩れる音はすごいものだった。

 B29に対し、日本の高射砲も攻撃するが砲弾がB29まで届かず飛行機の下で爆発している。それでも砲弾の破片がB29に当たると白煙を吐き一段と高い音を出して米軍の軍艦が停泊している釜石港へ引き返して逃げる光景を何度か見た。

 日本が敗戦したことにより、米軍の大勢の兵隊が上陸して来た。彼らは神社、仏閣を手当たり次第荒しさい銭箱は壊される、自転車は勝手に乗り回して捨てる。鶏小屋に入り卵を持って行くなど乱暴で好き勝手なことをしているが地域の人は何も言えずただ見ているだけだった。子ども心にも悔しくてならなかったが、近くを腕章をつけた軍服の2人組を見た途端、慌ててその場から立ち去った。

 その日の午後、近くの木材置き場の丸太にぼんやり腰掛けていると向こうから2人の軍人が歩いてきた。とっさにここで殺されるのではと思い身体が硬直して動けなかった。兵隊の2人は私のそばまで来て何かを伝えようとしているが私には伝わらない。その時、兵隊の1人がポケットから長方形の箱を出し「あなた(子ども)にあげます」とのそぶりだったが、私は受け取らなかった。

 その時、兵隊は箱の封を切り中から1個取り出して食べて見せた後、その箱を私の手に握らせて帰った。

 中身は米国のキャラメルだった。そのキャラメルは、とても甘くおいしかった。