奥州市前沢新町 菅野好子さん

 戦争が激しくなり連日空襲警報のサイレンが鳴り響く1944(昭和19)年ごろは、食べる物も不足して配給という制度こそあったが、何の足しにもならなかった。

 当時、私は14歳。母と8歳下の妹との3人暮らしだった。父は前年ろくに医者にもかかれず49歳の若さで亡くなった。

 16歳の兄は学徒動員で軍需工場に住み込みで働いていた。10歳の幼い弟は学童疎開で親元を離れ、秋田のお寺で生活していた。終戦後、母が迎えに行き、帰ってきた時の手のひびや足のしもやけの姿が痛々しかった。

 私は母の和服などを背負い、ひとり郊外の農家を訪ね食料の調達に行った時のことが、いまだに思い浮かぶ。

 親切な農家で1升のお米と野菜少々を交換し電車で2駅ほどの駅へ降り立った。ホームには今まで見たこともない心配そうな青白い顔の母が迎えに来ていた。ホームへ飛び降り母に抱きついた。この時の思い出は平和になり、まもなく卒寿をむかえる今も脳裏を離れることはない。

 たった一人で買い出しに出た私。それを送り出した母の後悔。

 その後の東京大空襲で家は跡形もなく焼失。遠縁を頼り岩手の人となった。今、高齢となり平和な日々を過ごせることの幸せを思い戦争という忌まわしいことは絶対、繰り返してはならないと語り継いでいかなければならないと思う。