第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年3月、当時7歳の少女だった関満子さん(83)=紫波町上平沢=は実家があった盛岡駅前が空襲され、命からがら逃げ延びた。毎日のように戦地に向かう兵士を駅から見送り、「英霊」として帰ってきた夫の遺骨を抱く妻たちの姿が目に焼き付く。「戦地じゃなくても犠牲を強いられた人は大勢いた。もう同じような思いをしてほしくない」。戦後75年。語り継ぐ人が年々少なくなる中、父が戦時中の街を撮影した写真とともに、語り部として平和の尊さを訴えていく。

◇     ◇

 45年3月10日午前2時半ごろ、ごう音とともに周囲がぱっと明るくなった。米軍のB29爆撃機が低空で飛来。「開いた腹から爆弾が落ちてきて、花火のようにきれいだと思ってしまった」。周りは火の海となり、姉の声を頼りに、2歳の弟を背負い毛布をかぶって駅前周辺を逃げ惑った。

 東京の叔母からもらった桃色のワンピースを持ち出す時間もなく、実家や父松四郎さんの本家が営んでいた駅弁屋兼レストランも焼け落ちた。10万人以上が犠牲になった東京大空襲と同じ日。盛岡駅周辺の155戸が焼失し、8人が死傷したとされる。

 空襲後、砂糖が岩のような茶色い塊となって燃え残っていた。「当時はとても貴重で、きょうだいと一緒になめたことを覚えています」。その後空き家を転々とした。両親を助けるため牛乳配達や豆腐売り、靴磨きで日銭を稼ぎ、花巻の農家を頼りに東北線を歩いて闇米を買いに行った。

 50年5月5日付の新岩手日報(現岩手日報)に「一家を支えるクツ磨き少年」として、兄の故賢三さんの記事が載った。《朝6時から夕6時までがんばっても客は10人位。「暮らしっコが楽じゃないから仕方がないヨ」とさびしく笑った》

 関さんの夫建彦さんは「盛岡も空襲を受けたことは多くの人が知らない」と語り継ぐことを勧めていたが2003年に58歳で急逝。その思いを胸に、長女で看護師の和智聡子さん(51)と機会を見つけ、地元の上平沢小や寺に出向いて戦中戦後の様子を伝えてきた。

のぼり旗を手に盛岡駅前に集まる人々。毎日のように出征する兵士の見送りが行われていた

 父が撮影し、空襲で焼け残った写真も世相を伝える。駅前広場に大勢の市民が集まり、手旗を持って出征兵士を見送る場面に毎日のように立ち会った。夫の遺骨を持って市中を回る親戚の様子からは、悲しみを押し殺さざるを得ない庶民の悔しさが伝わる。

 戦中戦後の苦労の上に、築かれた今の暮らし。関さんは色あせた写真を前に語った。「勝った勝ったと知らされても、本当は負けていた。本当のことを誰も言えない時代だった。記憶が曖昧になる中、今伝えていかなくてはならないという思いが強くある」