毎日くたくたになるまで働いた。いつも空腹だった。18歳の若者は1944(昭和19)年末から終戦まで、学徒勤労動員によって群馬県の中島飛行機小泉製作所で海軍の戦闘機を造っていた。

 新潟県長岡市の斎藤譲一さん(93)は旧制長岡中学(長岡市)を卒業後、長岡工業専門学校に進学した。勤労先でも授業が受けられると思っていたが、待っていたのはゼロ戦(零式艦上戦闘機)の燃料タンクを取り付ける日々だった。

 後に知ったことだが、同じ頃、一時的に小泉製作所には三島由紀夫が動員されていた。

 斎藤さんは当時食べ盛り。1食当たり小ぶりなおわんに混ぜ物のご飯やおじやが1杯だけ。お代わりはなく、菜っ葉や煮豆などをおかずに食べたが「全然足りなかった」。その上、仲間内で「利根川の砂利」とやゆするほどまずい。そんな食事でも「とにかく腹いっぱい食べたかった」。

 ある日、仲間ら数人と「決死隊」を募り、寮の調理場に忍び込んだ。手には洗面器。回転する巨大な釜に洗面器を突っ込み、ご飯を部屋に持ち帰った。「戦果あり」と言って仲間たちとむさぼるように食べた。

 「犯人捜しはなかった。捜そうと思えばすぐに見つけられたのにね」。大人たちの優しさを垣間見た。だけれどすぐに警備が厳しくなり、決行は「一度きりだった」。

 仲間で次なる作戦に出た。寮と工場での食事は食券制で、はがき大の厚紙にひと月分の日付や朝昼晩などと記されていた。「入り口に係のおじさんがいて、千枚通しで穴を開ける」仕組みだった。

 斎藤さんたちは食券の穴を別の厚紙で裏打ちしてふさいだ。混雑に紛れ、食事後に再び列に並ぶ。食券を渡し、千枚通しが通る…。

 結果は「プスン」。

 「こりゃ駄目だよ学生さん、2回目だもん」。手応えがなく、すぐにばれた。

 斎藤さんが怒られることはなかった。「係のおじさんは外国出身の徴用工だった」という。「学生がひもじいのを知っているし、徴用工として苦労している身だから気の毒に思ったのかもしれない」と振り返る。

 戦争が終わり、工場を離れる時、別の徴用工の人たちから石を投げ付けられた。戦争に負けたことを実感した瞬間だった。

 戦中は勉強の機会を奪われ、工場では空襲や飛行機の機銃掃射から逃げ惑った。悲しい思い出も少なくない。一方で斎藤さんは「どんなものであっても、青春時代はかけがえのないものなんだ」と目を細めた。

(新潟日報社提供)