盛岡市高松 中村幸輔さん(84)

自宅の庭に遷座した地蔵を前に両親の思い出を振り返る中村幸輔さんと妻哲子さん=盛岡市高松

 盛岡市高松の中村幸輔さん(84)は1943(昭和18)年、国民学校2年の夏に日記を付け始めた。軍靴の響きは7歳の少年の日常から遠く、むしろ、両親のいない疎開生活で、親戚らに受けた冷たい仕打ちが思い浮かぶ。

 鹿児島市で医師の平輔さんと母タミさんの間に生まれた。父が68歳の時の子。1年余り後に妹紀子さん(83)が生まれたのもつかの間、タミさんは結核のため35歳で命を落とした。

 母の思い出はほとんどない。「いつも自宅の2階で療養していて、亡くなる直前、鹿児島に雪が降った40(同15)年1月に会うことが許された」

 母の死後、東京都豊島区に転居。母方の祖父母に預けられた。親子ほど年の離れた結婚に反対していたこともあり、しつけは厳しかった。43(同18)年の夏休み、葛飾区で開業した父と過ごせた国民学校2年の思い出が日記に残る。

国民学校2年生の中村幸輔さんと妹紀子さん

 《今日のひるころパパに本をよんでいただきました》《えん日で、てぱう(鉄砲)と、てじなのやうなものを買っていただきました》《にっぽり(日暮里)にすゐか(スイカ)を取りに行きました》

 中村さんは「生活に苦労したことはなかった。父と会って一緒に布団で寝たり、縁日に行くことが楽しかった」と振り返る。だが翌44(同19)年夏、祖父の実家のある秋田県鹿角市への縁故疎開が決まる。父も鹿児島に戻った。

 秋田の暮らしはひもじかった。祖父母や親戚ら13人が同じ屋根の下で暮らし、妹と小さな部屋を与えられた。「夜になると隣の部屋から家族の笑い声が聞こえてくる。それが嫌でした」

 周囲の農家は軍にコメを供出し、食べるものにも事欠いた。食事は薄いかゆや野草を取って煮た物が続いた。男手が足りず、水くみやまき割り、肥やしの運搬-。終戦にかけて生活は日々、厳しくなっていった。

 父は亡くなる直前まで手紙をくれた。《死後の計をしてゐたのに幸輔、紀子がうまれました。心もすなほで身体も元気で、お母さんも草葉の陰で喜んで手を合わせて拝んでゐられるだろふ》。その優しさが励みだった。終戦後の47年6月、父が死去したと電報が届いたが、戦後の混乱期、行くことはかなわなかった。

 中村さんは岩手大を経て本県の中学校教員となり、盛岡市出身の哲子さん(85)と結婚。3人の男の子を育てた。盛岡の自宅の庭には、父が建立した地蔵がある。鹿児島から2001年に遷座した。

 「父にとって私が初めての子。子どもを授かることを祈願したと聞いています」。中村さんはそう語り、親子の情を確かめるようにそっと手を伸ばした。