2020.04.14

あしあと(33)米沢ゆみ子さん、伸吾さん、穂花さん(陸前高田)

米沢政敏さんの思いを受け継ぐ(左から)伸吾さん、穂花さん、ゆみ子さん=陸前高田市高田町(撮影データ=35ミリF8、125分の1秒)

命懸けの教えは誇り

 一度高台へ逃げたのに、低地へ戻り亡くなった夫を誇りに思う。

 陸前高田市高田町で理容店髪工房を営む理容師米沢ゆみ子さん(69)は、昔なじみの客が今も来てくれるたびに、感謝と、共に店に立ち続けた夫政敏さん=当時(59)=がいない寂しさを感じる。何年過ぎても、いつも一緒にいた人が帰らないのは、つらく、苦しい。

 父の後を継いで理容師になった政敏さんは、2002年、市の海洋療法(タラソテラピー)施設建設に反対する市民団体の会長を務め、07年に市議となった。

流失した店舗の絵や政敏さんの似顔絵などが並ぶ店舗。今も常連が通い続ける(撮影データ=24ミリF2・8、60分の1秒)

 家族は出馬に猛反対したが、「誰かがやらなきゃならない」と懇願された。初当選後も変わらず店に立つ一方、当時想定されていた宮城県沖地震津波の防災対策に取り組み、同市の地形が津波に極めて弱いことを知っていた。

 地震が起きた時、政敏さんは店から徒歩数分の市役所にいたが、帰ってきたのは15分ほど過ぎてから。車がなく、自力で避難できない近所の高齢女性とその娘を連れて来ていた。「ここは危ない」と、連れてきた親子と当時2歳だった孫の穂花(ほのか)さん、愛犬長介を連れて高台の両親宅へ逃げた。

 ここで動かなければ助かっていた。だが、政敏さんは低地に向かった。高田小の校庭に整列しおびえていた子どもたちに「もっと上へ行け」と叫び、走らせた後、再び近所の高齢者方を回って避難を呼び掛けた。

 政敏さんの遺体は、児童が逃げた直後に津波が襲った高田小近くで見つかった。乗っていた乗用車の後部座席には、高齢者が2人いた。

 消防団員を務める長男の理容師伸吾さん(43)は「おやじは市民を守って死んだ。だがその後の地震でも、相変わらず逃げなかったり、制止を振り切って低地に向かおうとする人がいた。『なして分がんね』『勝手に死ね』と怒鳴りつけたくなった」と振り返る。

 地震が起きたら、一人一人がてんでんばらばらに高台へ逃げる「津波てんでんこ」を伝える大切さをかみしめる。

 政敏さんに助けられた穂花さんは、高田小の6年生になった。祖父の記憶はほとんどないが、政敏さんが好きだった野球に打ち込んでいる。右投げ左打ちで右翼手のレギュラーをつかみ、男の子たちと一緒に頑張っている。

 伸吾さんは「おやじはうれしいだろうな。生きていたら、毎日見に行っただろうな」とほほ笑む。

 まちの復興は最終盤で、若き日の政敏さんが汗を流した高田松原球場も間もなく低地に復旧する。

 穂花さんは「地震が来たらみんなに声を掛けて、走って逃げる」と、祖父の誇りを継ぐ。

(文・写真、報道部・太田代剛)

賢治の言葉

そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪で楽しく暮らすことができたのでした。

 グスコーブドリの伝記より抜粋

 
~東日本大震災
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 ◇主な使用資機材▽カメラ ニコンF3P▽フィルム ネオパン100アクロス▽フィルム現像液 D-76▽印画紙 イルフォードMGⅣ、フジブロWPFM2▽印画紙現像液 デクトール