2020.03.27

あしあと(32)新沼 政憲さん(神戸)

喫茶店で新聞を広げ、今も家族の絆を思う新沼政憲さん=神戸市中央区(撮影データ=50ミリF1・2、125分の1秒

古里遠く 家族は心に

 四半世紀が過ぎた。1995年1月17日、阪神大震災で被災し神戸を離れた両親は2011年3月11日、東日本大震災で亡くなった。今も神戸市で暮らす会社員新沼政憲さん(54)は「何もなければとっくに陸前高田へ帰り、みんなそろって暮らしていた」と、家族の暮らしを懐かしむ。

 横浜市の魚河岸で働いていた父勝也さん=東日本大震災当時(69)=は30代で陸前高田市に帰郷し、そば店仙寿庵を開店。その後、腕を見込まれて盛岡市や東京都内の店で働き、1984年ごろ、新規開店した神戸市の店を任された。

三宮の喧騒の中、ひとり生きていく(撮影データ=50ミリF1・2、125分の1秒)

 どこに行っても店は妻敬子さん=同(71)=と二人三脚で切り盛りし、家族もずっと一緒だった。「学校が終わると店に行き、父や母が働く様子を見ていた。父は仕事に厳しく、昔かたぎ。母は静かな人だったが、いつもおしゃれだった」と、にぎやかだった昭和の記憶をたどる。

 いつの間にか自らも調理師となり、神戸市内の高級ホテルのレストランに就職。結婚し、子どもも授かった。ポートアイランドの公団住宅で両親と暮らし、いつか店を持とうと夢見る一家を激震が襲った。

 命は皆助かったが、両親は店が入居していた百貨店が半壊したため、東京都内の系列店への異動を余儀なくされた。

 最後に両親に会ったのは2003年。とても懐いていた子どもたちを東京ディズニーランドに連れて行ってもらった。思い出は今も、心の真ん中に残る。

 その後東京の店を辞め、07年に陸前高田へ戻った両親は、11年の震災で犠牲になった。自らも離婚し、家族は消えた。

 8年ぶりに再会した両親は、住田町の遺体安置所で静かに眠っていた。離れて暮らしていたため最近の写真がなく、着ていた服なども分からない。多くの遺体の中から探し出すのは大変だったが、なぜか気になる遺体があり、見せてもらったら勝也さんだった。

 敬子さんが再婚前に授かった子どものため勝也さんと血のつながりはないが「家族って、そういうもんなのかな」と、ふに落ちた。9月に出した葬式には、子どもたちが参列して手を合わせてくれた。「とてもかわいがっていたから、うれしかっただろう」と感謝する。

 両親は、もう一度陸前高田で自分たちの店を出そうと物件を探していた。それを手伝い、いつか引き継ぐつもりだった。「あれから9年、時間が止まっている」。三宮の喧騒(けんそう)の中で、古里を思う。

(文・写真、報道部・太田代剛)

賢治の言葉

まことのことばはうしなはれ/雲はちぎれてそらをとぶ/ああかがやきの四月の底を/はぎしり燃えてゆききする/おれはひとりの修羅なのだ

春と修羅 春と修羅より抜粋

 
~東日本大震災
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