あしあと(31)菅原真佐子さん(陸前高田)

一針一針に孫を思う
未明まで眠らず、かぎ針でネズミやカエルの人形を編んでいる。陸前高田市高田町の菅原真佐子さん(77)は、「孫たちの成長を絶ってしまったことがとても申し訳なく、自分だけ助かったことを後悔しています」と、一針一針に思いを込める。1日8時間以上編み続けることもある。
東日本大震災で、夫の芳一(よしかず)さん=当時(68)=と、当時9歳と5歳だった孫を3人亡くした。弟2人と親族を合わせた身内7人を一度に失い、今は1人で暮らしている。

孫が生まれてからずっと、芳一さんと一緒に面倒をみてきた。芳一さんが毎日保育所へ送迎し、友達の名前もたくさん覚えていた。帰宅後は近くの公園で遊んであげた。愛情を受けて育った孫たちは、道端のシロツメクサをプレゼントしてくれた。「お茶は最後の一滴に栄養があるんだから」と言い、最後は必ず母親に注いであげる、心優しい子に育っていた。
当時高田小3年だった孫の結恵(ゆえ)さんは、プロ野球の千葉ロッテに入団した佐々木朗希投手(18)と同い年で、家族ぐるみで親しくしていた。最近、テレビに佐々木投手が出るたびに「助けてあげられていたら、結恵にも青春があったのに」と、涙がにじむ。
震災2日前に来た小さな津波の後、芳一さんと「大津波が来たら孫たちをどうするか」と話し合ったが、慌ただしさに紛れて結論が出ていなかった。3月11日の地震の後、芳一さんは車に飛び乗り、3人の孫たちを迎えに高田保育所と高田小へ向かっていった。
孫たちを車に乗せた後、真佐子さんを連れに家へ戻る途中で、車ごと流されたとみられる。真佐子さんは、近所の人の車に乗せられ既に避難していた。激しい余震の中、真っ暗な道を歩いて避難所を回ったが、芳一さんや孫たちはどこにもいなかった。
「私も一緒に迎えに行けば良かった」「私なんか見捨ててほしかった」。生き残れたはずのあらゆる可能性を考えては自らを責め、心が凍り付いた。周囲が「このままでは死んでしまう」と心配し、心療内科を受診した。
思いやりの手を差し伸べたのは、高田一中仮設の人たちだった。アクリルたわし作りをきっかけに友達の輪が広がり、女優の大場久美子さんらとBAPPA(ばっぱ)ダンサーズの活動を楽しんだりするうちに、明るさを取り戻していった。
「誰を亡くしたかを誰も聞かなかったけれど、お互い自然に理解していた。いい人ばかりだった」。2年前に自宅を再建した後も変わらず、親しくしている。
家中に花を絶やさず、できるだけ笑顔で過ごし、人形作りに熱中する。「この世に孫たちがいたことを忘れないでほしい」と、震災の風化を心配しながら。
(文・写真、報道部・太田代剛)
賢治の言葉
かなしみはちからに、欲りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし
保阪嘉内への書簡より抜粋