あしあと(28)千葉 丑実さん(陸前高田)

紙一重の命かみしめ
わずかな差が時に刹那に、時に劫(こう)を経て広がり、異なる結末をもたらす。東日本大震災の津波から辛くも逃れた陸前高田市小友町の千葉丑実さん(82)は、妻誠子さん(79)とむつまじく暮らしている。
吉浜中校長を退職後、縁あって高齢者パソコン教室の指導員を務めていた。大地震が起きると誠子さんら生徒たちを急いで避難させたが、自分は途中で引き返してしまった。

「パソコンをおとしてない。ストーブもつけっぱなし。部屋も施錠しないと」。教員時代からの責任感が裏目に出た。
後始末を終えて車を走らせたが市街地は渋滞で動かず、裏道に回って自宅を目指した。海沿いの道を左折し、高台に向かった直後に第1波が襲来。左折が数十秒遅ければ命はなかった。
そのころ、同市小友町で精米店を営んでいた姉悦子さん=当時(78)=と正男さん=同(86)=夫妻は、率先して公民館へ避難していた。防潮堤を越えて迫る津波を見てさらに高台へ逃げようとしたが、誤作動したJR大船渡線の遮断機に遮られ、あと一歩のところで波にのまれた。
実直な正男さんと多趣味で顔が広い悦子さんが営む店は常連客が絶えず、いつもにぎやかだった。「ちゃんと逃げたのに助からなかった」と不条理を嘆く。
自宅は泥とがれきに埋もれていた。流失は免れたがとても暮らせず、近くの正徳寺に避難したが、市職員を兼ねる住職は市民のため不眠不休で働いていた。家族も着の身着のまま身を寄せた最大150人もの被災者を懸命に世話していた。
「家が残った者は自立すべきだ」と立ち上がった。米ニューヨーク市など世界中から駆け付けた大勢のボランティアと力を合わせてがれきを片付け、家に戻った。「あのころは本当にみんなが優しかった。この優しさがずっと続いてほしいと思った」と感謝する。
一方で自宅避難者への生活支援は乏しく、しばらく食事にも事欠いた。家は津波やがれきの圧力と地盤沈下で次第にゆがみ、今も傾き続けている。扉が次々と開かなくなり、広がった隙間から泥がこぼれ落ちるが、今更建て直す資金はない。
「遠いし、隙間風が寒いから」と、家族がそろう盆や年末年始は毎年、長女一家が一関市赤荻に建てた家で過ごす。
「私はもう諦めたが、全国で災害が続いており、自宅で頑張る被災者も支える仕組みが必要だと思う。生きるも死ぬも何もかも、紙一重なのだから」
(文、写真・報道部、太田代剛)
賢治の言葉
一つずつの小さな現在が続いて居るだけである
ビジテリアン大祭から抜粋