2020.01.23

あしあと(29)佐藤 省次さん(宮古)

子どものころ駆け上がった階段を上り、ふるさとを望む佐藤省次さん=山田町(撮影データ=55ミリF3・5、60分の1秒)

届けた声 古里を思う

 もう何もないこの場所に、生まれ育った家があった。海に近く、幼いころは桟橋でタコを捕まえ、イカを釣って遊んだ。裏山の階段を上った先の墓地は、みんなの秘密基地だった。

 佐藤省次さん(70)は、山田町中央町のふるさとをゆっくりと歩く。高さ9・7メートルの壁のような防潮堤を見上げ、「両親はちょうどこの下のあたりで、折り重なるようにして見つかった」と手を合わせる。国道45号を渡ると「叔母は逃げる途中、ここで波にのまれた」とかみしめる。

肌身離さず持ち歩いているラジオ。全国のリスナーが送ってくれた(撮影データ=35ミリF8、60分の1秒)

 家族と親戚を合わせ、11人を亡くした。

 当時は宮古市に出掛けていたが、「もし家に一緒にいたら、叱りつけてでも一緒に逃げただろう」と悔やむ。一方、足が不自由だった父をわずかな時間で高台に運び切れたのか、確信は持てない。

 「最後に親を置いて自分だけ逃げるなんて。そんなことができるのか」。あり得ないと思うほど、死の恐怖が答えを揺らす。

 東日本大震災後、宮古市崎鍬ケ崎のみなし仮設住宅に入った。自宅跡地は災害危険区域となり建築が制限されたため、家の再建を断念。先祖伝来の土地を町に売った。その代金などで住んでいたみなし仮設住宅を買い取り、今も暮らしている。

 家族同然に助け合ってきた地域の絆は断ち切られ、気を紛らわせてくれるのは4台のラジオだ。

 2010年3月に同市を退職し、仲間とコミュニティーFM局の開設を目指す中で震災が起きた。被災者に家族の安否や生き抜くための情報を届けるため、県内外から多くの支援を得て急きょ臨時災害放送局を開局。食料やガソリンの入手方法など、県立大宮古短期大学部の学生や地元高校生らのボランティアが一つ一つ現場を訪れて確認した、確かな情報だけを伝え続けた。

 ラジオはニッポン放送などの呼び掛けで、全国のリスナーが支援物資として送ってくれた。その一つを肌身離さず使っている。

 インターネットが満足に使えない被災地で、ラジオは最強のメディアだった。「災害は必ず起きる。教訓に学ぶべきだ」と、市町村単位で最低限の放送設備を保有するよう訴え続ける。いつの間にか「次に備えよ」が口癖になった。

 あれから間もなく9年。恋しいふるさとに、もう帰る場所はない。子どものころ駆け上がった階段をゆっくりと上り、大小二つの島が浮かぶ静かな山田湾を望むと、目頭が熱くなる。忘れぬ思い出と家族の魂が眠るここだけが、今も心のよりどころだ。

(文・写真、報道部・太田代剛)

賢治の言葉

今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。

 両親あての遺書より抜粋

 
~東日本大震災
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 ◇主な使用資機材▽カメラ ニコンF3P▽フィルム ローライRPX100▽フィルム現像液 D-76▽印画紙 フジブロWPFM2▽印画紙現像液 デクトール