あしあと(20)小畑 幸子さん(大槌)

短歌千首、亡き家族へ
東日本大震災後、短歌を詠むようになった。
-津波前 息子の植えし 桜木も 見上げる程に 大きくなりて
大槌町大槌の小畑幸子(さちこ)さん(85)は、震災で長男剛(たけし)さん=当時(49)=と、夫の士(つかさ)さん=同(81)=を亡くした。若い頃から日記や随筆を書き続けてきたが、涙で長文が書けなくなり、夜中に目が覚めた時の思いを三十一文字(みそひともじ)に込めた。ノートに記した歌は千首を超える。

川崎市で測量士をしていた剛さんは震災の5年ほど前に帰郷。両親を支えながら写真を楽しみ、スポーツ大会で写真を撮っては地域の人に配り、喜ばれた。
同町は震災で大火災に見舞われ、車ごと流された剛さんの遺体はなかなか見つからなかった。親戚総出で捜す中、士さんががれきの中で足を滑らせ転倒。脊髄を痛めたことがきっかけで亡くなった。
新日鉄釜石に長年勤め、無口だが働き者だった士さん。将棋はかなりの腕前で棋友も多かったが、わが子が見つからない現実が急速に生命力を奪った。片道2時間かけて毎日のように花巻市内の病院に通い励ましたが、日増しに食欲が細りやつれていった。
そのころ、もう一つ気掛かりがあった。震災後、約2カ月ぶりに入浴できた時、左胸に2センチほどのしこりを見つけた。乳がんだった。息子の捜索と夫の看病で自分のことは後回しにしていたが、不安は募った。
2011年7月23日、DNA型鑑定でやっと剛さんの遺体が確認された。悩んだ末、士さんには剛さんの発見だけを伝え、自らの病は語らなかった。1カ月後、士さんはそのまま息を引き取った。
乳がんの手術後、家族を失い、一人で再発の不安におびえる幸子さんを支えたのは、老いた愛犬太刀(たち)だった。とても賢く、幼い頃のしつけをしっかり守り、幸子さんが左大腿(だいたい)骨を骨折しつえをつくようになった後には、ゆっくり歩幅を合わせて歩いてくれた。
老老介護のように寄り添い合った太刀も15年2月に死に、剛さんが震災前日に植えた桜の下に葬った。
-人々は 何と言おうと 震災後 助けられたは 太刀お前なり
本当に一人になった今も、3度の食事を作り、掃除、洗濯をして庭の草花を育て、随筆や短歌をしたためながら暮らしている。震災のことを話すと目が潤むが、決して泣かない。
「生きることは一番大事なことでいいことだなす。とにかく今日も笑って生きられたことを良いこととして、精いっぱい働いて死にたい」と桜に語る。
(文・写真、報道部・太田代剛)
賢治の言葉
原稿のなかから一字一字とび出して来て、わたしにおじぎするのです
(故宮沢静六さん著「兄のトランク」より、童話執筆に没頭したころの言葉)