第2次世界大戦の数々の事実。その一端を知るために、「援護の記録(岩手県戦後処理史)」=1972年・県発行=を開いてみた。

 座談会は、多数の犠牲を出したことへの怒りがにじんでいる。

 例えば、本県出身者が多く戦死したニューギニアのある部隊について。「師団で生き残ったんはわずか百数拾名、戦死した人が3千数百名ですよ。マラリヤだの栄養失調だので死んだわけです」。別の部隊も「ジャングルの中を徒歩で歩きながら皆んな死んでしまった」。

 そんな悲惨な状況は同地に限らない。兵士たちは戦闘行為そのものだけでなく、食料に事欠き、病に冒され、苦悶(くもん)の中で息絶えた。

 ある事実を統計が克明に映し出す。太平洋戦争開戦の41年12月8日以降の「死没者数」(敗戦後も含む)は約3万700人。そのうち9割近くを44年1月以降が占める。

 歴史学者の吉田裕さんは著書「アジア・太平洋戦争」の中で「戦争終結の決断が遅れたことで、どれだけ多くの生命が失われたかを、この数字は示している」と指摘している。

 敗戦の色が濃くなる中、無謀と言える作戦で戦場に送り込まれた兵士たち。統計数字の背後にある一人一人の絶望。そんな状況を上層部はどう思っていたのか。

 終結の決断が遅れる中、国土は空襲などに見舞われた。本県も、釜石の艦砲射撃をはじめとして戦禍に遭い、多くの犠牲者を生んだ。

 戦後74年。戦争の生々しい記憶を持つ人は少なくなっている。記憶を継承していくために、体験談や記録と向き合い続けなければなるまい。苦悩や恐怖に対する想像力を働かせつつ。

 そして、今起きている内戦や紛争、国家間の緊張を直視し、平和な解決を願うことも求められよう。

 戦場では日常が一瞬にして奪われる。多くの命が犠牲になり、生活の場を失った人々には難民キャンプでの飢餓や病の不安が待ち受ける。

 無人機を遠隔操縦し、テレビゲームのような感覚での攻撃が使われるようになった。さらに人工知能(AI)を搭載し、人間の意思を介さずに敵を殺傷できる兵器の開発も進められている。

 悲惨な現場に直面しないことは、戦闘への心理的な垣根を低くする。しかし、兵器の向こうには恐怖におののき、絶望の淵に落とされる相手の部隊や市民がいる。

 戦争をなくすために。悲惨な経験を経て平和憲法を持つ日本が、世界に発信できることは多いはずだ。令和という新たな時代で迎える終戦の日に、その思いを強くする。