2019.07.02

あしあと(17)千代川幸雄さん(福岡・大牟田)

「無念を伝えることで、後世に教訓を残せる」とかみしめる千代川幸雄さん=福岡県大牟田市・三池炭鉱宮原坑(撮影データ=50ミリF5.6、125分の1秒)

遠い古里つなぐ「縁」

 近代製鉄の父とされる旧盛岡藩士大島高任(たかとう)の指導で、釜石市橋野町に日本初の洋式高炉が造られた40年後。日本の急速な近代化を支えるため、福岡県大牟田市の三池炭鉱宮原(みやのはら)坑が1898(明治31)年に完成した。1931(昭和6)年に閉坑するまで、毎年40万~50万トンを出炭した。

千代川泰三さん、道子さん夫妻(ともに故人)が1972年に建立した墓。明治の三陸大津波で亡くなった子ども2人の戒名が刻まれている。反対側にはレイテ沖海戦で戦死した九萬吉さんの名がある=山田町大沢(撮影データ=24ミリF5.6、60分の1秒=YA3フィルター使用)

 同坑跡は2015年7月、釜石市の橋野鉄鉱山(橋野高炉跡と関連遺跡)とともに、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に登録。東日本大震災で宮古市光岸地の父泰三さん=当時(87)=を亡くした大牟田市の行政書士千代川幸雄さん(61)は「不思議な縁を感じる」と、約1240キロの距離を超えた古里岩手と大牟田の歴史をひもとく。

 歴史は時と距離を超え、どこかでつながっていく。泰三さんは第2次世界大戦中に学徒出陣し、山口県周南市で旧海軍の人間魚雷回天の訓練を受けた。人間が乗ったまま敵艦に突撃する必死の特攻兵器で、1945(昭和20)年10月に出撃する予定だった。

 同年8月に終戦し生き延びたが、泰三さんは「若い時の教育は抜けないもんだ」と、心の強さを保った。自由と繁栄を謳歌(おうか)する戦後の日本でも忠節、礼儀、武勇、信義、質素の5カ条からなる軍人勅諭を忘れず、日曜日には木刀を振った。

 県を退職後もぱりっとしたワイシャツを着てさっそうと歩き、がんの手術直後には病床から気合で起き上がって医師を驚かせてみせたが、津波からは逃れられなかった。

 幸雄さんは震災の6日後の3月17日に、長男の大学合格を報告するため親子で泰三さんを訪ねるはずだった。「めったに帰れないので、きっと楽しみにしていただろう。足腰は弱っていたが、生き残る可能性は十分にあった。息子に大切なことを伝えてやってほしかった」と悔やむ。

 泰三さんと妻の故道子さんが山田町大沢に建てた千代川家の墓には、通常の法名碑のほかに、泰三さんの兄で重巡洋艦愛宕に乗り組んでいた九萬吉(くまきち)さんがフィリピンのレイテ沖海戦で戦死したことや、1896(明治29)年の三陸大津波で家族の子ども2人が亡くなったことが墓石本体に刻まれている。

 「父と母は、戦争や津波で命を落とした家族の無念を後世に伝えようとしたのだろう。東日本大震災は貴重な映像や遺構がたくさん残っている。何を伝えていくべきかという点から整理し、継承していく必要がある」とかみしめ、自らも一族の歩みをまとめている。

(文・写真、報道部・太田代剛)

賢治の言葉

戦争とか病気とか学校も家も山も雪もみな均(ひと)しき一心の現象に御座候

 父への手紙より抜粋

 
~東日本大震災
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