あしあと(15)浜守 博さん(大船渡)

人生全う、譲れぬ思い
1カ月ほど前から、1人で暮らしている。妻の芳子さん(84)が転んで股関節を骨折し、入院して手術を受けた。退院後は寝たきりになる。大船渡市末崎町の漁業浜守博さん(87)は、2人の寝床が並ぶ部屋でせっせと介護の準備を進める。
芳子さんは以前から体調が優れず、最近は博さんが家事をしていた。部屋は整頓されてほこり一つなく、庭では海風に洗濯物がたなびく。にぎやかな7人家族だったころと変わらぬ、きちんとした暮らしを続けている。

毎朝軽トラックで病院へ通い、芳子さんの手を握る。昔は自慢の博洋丸(3トン)で沖に出て、2人で刺し網漁やタコかご漁にいそしんでいた。「長いこと海で一緒に頑張ってくれたから」と寄り添い続ける。
東日本大震災で一人娘の栄子さん=当時(49)=を失った。栄子さんは体があまり強くなかったが、1男2女を授かり、パッチワークで子どもたちの服を手作りするなど深い愛情を注いでいた。家族を大切にし、家事も一生懸命だった。
家計を助けるためパートに出ていたドラッグストアで地震に遭い、客を誘導して避難させた後、自らは逃げ遅れて津波にのまれた。はにかんだような笑顔がすてきな女性だった。
栄子さんが残した孫たちは、順番に自立した。今もしょっちゅう顔を見せに来てくれる、優しい大人に育ってくれた。
震災から8年3カ月になる今も、栄子さんのことを思い出す。立派に育っていく孫やひ孫たちの姿を見せてやりたかったが、それはかなわない。
代わりに自分ができる限り見守り続け、最後は「一番下の孫娘もあまり丈夫じゃないから、周りの人たちに『やんべに(いい具合に)してやってよ』と頼んで死にたい」と打ち明ける。
だから一日でも長く、毎日をきちんと生きようとしている。震災後は新たな博洋丸(0・3トン)でウニやアワビ、ヒジキなどの漁に出ていたが、米寿を前に浜の仕事はきつくなった。昨年の水揚げ高は3万円ほど。
海も急激に磯焼けが進み、海底が真っ白になってしまった。更新が迫る船舶免許証を見つめ「もう潮時かな」と引退を考える。
だが、たとえ海を離れても、家のそばに畑がある。わずか10アールだが、芳子さんと2人で食べる野菜を育てていける。
「私も年だから、仕事も介護も大変だと思います。でも、まだまだ頑張って生きたいのです。この先、夫婦そろって病院通いが仕事になったとしても、残りの人生をしっかり生きたいのです」
娘の無念を知る親の、譲れない決意を示す。
(文・写真、報道部・太田代剛)
賢治の言葉
雪袴黒くうがちし うなゐの子瓜食みくれば/風澄めるよもの山はに うづまくや秋のしらくも/その身こそ瓜も欲りせん 齢(とし)弱(わか)き母にしあれば/手すさびに紅き萱穂を つみつどへ野をよぎるなれ
文語詩稿より「母」