2019.04.29

あしあと(12)村上 強さん(陸前高田)

トラクターに乗り込む村上強さん。令和の時代に、新たな一歩を踏み出す=陸前高田市(撮影データ=35ミリF5・6、60分の1秒)

ともに歩む農業の道

 墓前に供える缶ジュースが、昨年ビールに変わった。東日本大震災から8年1カ月余り。震災で次男駿大(としひろ)さん=当時小友中1年=を亡くした陸前高田市小友町の農業村上強さん(48)は今季、ピーマン栽培に挑戦する。

 「自分も年を取った。亡くなった息子も年を取っただろう。自分が何かしなければ、息子も何もできないんじゃないか」。10アール程度で試験的に取り組み、拡大を目指す。

毎年春がやってきて、春耕が始まる。駿大さんはいつもそばにいて、一緒に年を取っていく(撮影データ=200ミリF4、125分の1秒)

 今年始まった収入保険制度を活用して安定的に賃金を支払える仕組みをつくり、「若者や障害者、高齢者が力を合わせて楽しく働き、ちゃんと食っていけるようにしたい」と夢見る。

 震災前、夢はあと一歩だった。2007年に本県沿岸初の集落営農組織、小友営農組合を設立し、大豆の転作に挑戦。組合員が作業を分担し、田植えと定植の時期が重なり難しかった適期適作を実現した。就農を目指す若者らに参加を呼び掛け、輪を広げる矢先の被災だった。

 地震の後、消防団員として低地への道路を封鎖し、高齢者を避難させた。後になって、駿大さんが同市高田町のショッピングセンターにいたことが分かった。

 翌日の卒業式で先輩に渡すプレゼントを友人たちと選んでいたらしい。避難所だった市民体育館へ向かったが、同体育館は想定外の大津波にのまれた。

 野球部員だった駿大さんは、先輩にも後輩にも好かれた。同級生14人は「ずっと一緒に生きていく」と誓い、修学旅行や卒業式、昨年の成人式などで、駿大さんら亡くなったクラスメート6人の写真を必ず掲げた。本当にありがたかった。

 それでも「駿大も、いろいろやりたいことがあっただろう」と胸が痛む。

 小友地区は広田湾と大船渡湾両方から津波が押し寄せ、水田の9割が被災。灌排(かんぱい)施設が壊れ農業機械もほとんど流されたが、農業者たちは「残った農地まで荒らしてはならない」と、地域に唯一残ったトラクターで大豆栽培を再開した。

 手作業で雑草を取ってくれたボランティアら多くの支援で農業を守り抜き、14年には農事組合法人サンファーム小友を設立して再び組織化を目指している。

 その間ずっと駿大さんは心の中にいて、時にそっと背中を押してくれた。「だから、ずっと止まっていては悪い気がする。気休めかもしれないが、自分が歩きだせば、駿大も一緒に令和の時代を進んでいける」と一歩を踏み出す。

(文・写真、報道部・太田代剛)

賢治の言葉

僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこはくない。きっとみんなのほんたうのさいわひをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。

 銀河鉄道の夜より抜粋

 
~東日本大震災
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 ◇主な使用資機材▽カメラ ニコンF3P▽フィルム ネオパン100アクロス▽フィルム現像液 D-76▽印画紙 フジブロWPFM2▽印画紙現像液 デクトール