2019.04.11

あしあと(11)磯崎 一元さん(東京・葛飾)

咲き誇る桜の下、ゆっくり自転車をこいで墓参りに向かう磯崎一元さん=東京都葛飾区(撮影データ=200ミリF5・6、250分の1秒)

下町で見守る母の墓

 今を盛りと咲き誇る江戸川の桜。河川敷でグラウンドゴルフの試合を終えた東京都葛飾区の磯崎一元(かずもと)さん(74)はゆっくりと自転車をこぎ、東日本大震災で亡くなった母咲子さん=当時(90)=らが眠る墓へと向かう。自宅から墓まで20分ほど。いつも散歩がてらに訪れ、線香を上げている。

 2011年は、「金の卵」として上京し48年が過ぎていた。盆明けには釜石市天神町の実家に戻り、母と二戸市下斗米出身の妻テイ子さん(73)の3人で一緒に暮らす予定だった。

悩んだ末に移設した両親の墓。近くでずっと冥福を祈り続ける(撮影データ=50ミリF5・6、250分の1秒)

 1998年に夫と死別後1人暮らしだった咲子さんは「大丈夫だ」と強がったが、こっそり風呂場や物置を改修するなど待ち遠しそうにしていた。

 第2次世界大戦中、身ごもりながら1歳の一元さんを抱き、満州の壮絶な戦渦をくぐり抜けた母。やっと親孝行できるはずだった。

 地震があと30分早かったら、自宅を訪れていたパン屋が連れ出してくれたかもしれない。逆にあと2時間遅かったら、慕われていた詩吟の弟子たちとの会合があり、助かっただろう。そもそも、あと半年早く同居を始めていたら-。

 生き残る可能性はいくつもあったが、足腰が弱かった母の遺体は自宅近くで見つかった。

 「震災さえなければ、せめて少し時間がずれていてくれたら」。崩れた自宅の惨状に足がすくみ「おふくろ、おふくろ」と叫んだ日から、亡くなった親にできる孝行が何もない現実に苦しみ続けてきた。

 一元さんら4人の子どもは、東京都のほか千葉県、埼玉県、北海道で暮らし、国内外の孫やひ孫を合わせると総勢25人を超える。釜石で父が建てた墓を守り、帰省してくる孫たちを母と共に迎えるのが夢だった。

 震災前年には一族が釜石市に勢ぞろいして咲子さんの卒寿を祝った。震災後も盛岡市からバスをチャーターして墓参りを続けたが、自ら高齢となる中「あと何年続けられるだろう」と悩んだ末、今後を考え昨年3月に墓を東京都に移した。

 周りは高層マンションの建設ラッシュだが、時折焼き芋屋が訪れ、高度成長期から受け継ぐ下町の風情や人情も残る。いつも前向きで笑顔を絶やさなかった咲子さんに、少し似合っている気がする。

 「これからは近くで見守っていく。だから、近くで見守っていてほしい」。気持ちに一つの区切りをつけ、穏やかに手を合わせる。

(文・写真、報道部・太田代剛)

賢治の言葉

すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるということはありません。

 めくらぶどうと虹より抜粋

 
~東日本大震災
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