2019.03.18

あしあと(9)松崎 豊司さん(横浜)

古里大槌につながる空を見上げる松崎豊司さん=横浜市港北区(撮影データ=200ミリF5・6、125分の1秒)

古里大槌を思い続け

 おしゃれな慶応大生が生き生きと歩く、横浜市港北区の日吉。東日本大震災で大槌町の家を失った松崎豊司さん(83)が1人で暮らす駅から少し離れたマンションは、静かな室内に家族写真が並び、幸せな思い出があふれる。

 震災で義理の姉の梅津容子さん=当時(76)=を失い、妻セイ子さんも2015年に75歳で亡くなった。三男覚さんも病に倒れ、昨年死去。45歳だった。

壁一面に思い出の写真などを飾った部屋(撮影データ=35ミリF2、30分の1秒)

 「震災で姉を失った妻は、大槌に戻れなくても引きずらず頑張っていた。私も同じ楽天家だから、深刻には考えない」と、穏やかに笑う。

 横浜市出身。大学を出て旧富士製鉄(現新日鉄住金)に就職し、釜石製鉄所に配属された。当時の釜石市は高炉がもうもうと煙をはき出し、数千人の従業員が灼熱(しゃくねつ)の鉄と格闘する熱い街だった。社宅は皆が家族同然で、1985年にはラグビー部の日本選手権7連覇に沸いた。

 退職後、ピアノ講師だったセイ子さんの古里大槌町で家業のビジネスホテルを引き継いだ。1階には1938(昭和13)年創業の老舗安兵衛食堂の歴史を受け継ぐそば店があり、毎日そばを打っては住民らと語らっていた。

 釜石市と大槌町は、家族とともに人生の多くを過ごした第二の古里だった。

 大きな揺れに襲われたのは、ちょうど仕込みに入ろうとした時。慌てて外へ飛び出したが、まさか津波が来るとは思わず、片付けのため2階に上がったところでものすごい水しぶきがやってきた。

 3階に駆け上がりなんとか津波を逃れると、次々と上がる水柱とともに消えゆく古里が見えた。同居していた容子さんは1階で亡くなった。

 翌日、ヘリで救助され1カ月近く町内の避難所で過ごした後、花巻市内の高齢者施設へ遠隔避難。大きな被害を受けた同町は冬になっても復興が見通せず、悩んだ末に移住を決めた。施設のクリスマス会を最後に本県を離れた。

 だが「自分たちだけが」という思いがずっと心に残った。音楽の力を信じるセイ子さんとともに、銀座でミニライブがあるビアホールを経営しているサッポロライオンに協力を依頼。14年11月、プロの音楽家たちが同町や釜石市などでボランティア公演し、長年ともに暮らし、一緒に被災した人々の心を慰めてくれた。

 その妻も、今はもういない。「私はここで生きていくしかないから。それより、大槌は大丈夫だろうか」と、古里へと続く空を見上げる。

(文・写真 報道部・太田代剛)

賢治の言葉

はい。からだ中とても血のまはりがよくなって大へんいゝ気持ちですぐに療る方もあればうちへ帰ってから療る方もあります。

 セロ弾きのゴーシュより抜粋

 
~東日本大震災
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