東日本大震災、大病を乗り越えて、再び野球の道へ-。盛岡中央高の奥玉真大(まさひろ)監督(44)=就任は4月1日=は、古里の気仙沼市で震災に遭い、家業の酒店と自宅を失った。昨年は病魔に襲われたが、1年に及ぶ闘病生活から復帰した。再起した奥玉監督を支え続けたのは、幼少期から励んだ野球を通じた出会いと、母校PL学園高(大阪)野球部の「球道即人道(きゅうどうすなわちじんどう)」という部訓だった。

 憧れのPLで甲子園の土を踏むため中学1年時にPL学園中に編入。高校2年春のセンバツは背番号14で代打出場した。卒業後は東北学院大、社会人野球で内野手として活躍。父の病気を機に25歳で酒店の4代目となった。

 2011年3月11日。母校の南気仙沼小で野球人生の経験を後輩に伝えた講演の後、長い揺れに襲われた。2日前に震度4、約20センチの津波を観測した気仙沼市。「元々防災意識の高い地域。心構えはできていた」はずだった。ただ、この日の津波は想像をはるかに超えていた。

 「自宅も店も市内に設置していた50台の自動販売機も全て失った。一日一日を生きるのが精いっぱいだった」。高校卒業時に当時の中村順司監督から贈られたものの津波で流出した「球道即人道」の書。恩師に再びしたためてもらい、気力を振り絞った。宮本慎也(ヤクルト)、松井稼頭央(西武など)らPLの先輩後輩の励ましもあり再起した。