思想家内田樹さんによると米国の開拓時代、住民たちはまず自警団を組織し、保安官を互選。学校も自分たちで建てて教師は町の予算で雇った。医療も自分たちで責任を持ち、やがて専門家を雇い入れた。新聞記者も同様だという

▼町の人口がある規模(1千人程度?)まで達したとき「町の新聞」が立ち上がり、それくらいの規模なら編集発行人1人の食いぶちは確保できたとする(農文協ブックレット「地方紙の眼力」所収の文章より)

▼内田さんはその上で新聞の現状を厳しく分析するのだが、それはさておき、記者は「人間が共同体をつくって集団的に生きていくために必須の、基礎的な職業の一つ」だったと説く。新聞は共同体を支えてきた

▼奥州市の集落で無料配布された月刊のミニ地域紙「黒田助(くろだすけ)新聞」は、小さくても確かな存在感があった。住民の芸術やスポーツでの活躍や消息、動植物の話題などを伝える手書きの紙面は、ぬくもりにあふれた

▼個人発行していた菊池博さんの訃報に接した。元市職員。ユーモラスな人だった。「私は新聞社の社主です。資本金はありませんが」と冗談ぽく自慢した笑顔が思い出される。読者の反響を励みにペンを握った

▼享年89。昨年まで発行を続けたのは「社主」としての自負と「記者魂」故だろう。合計783号。六十余年、地域を支えた。