あしあと(8)河野 和子さん(陸前高田)

地域住民集う日待つ
遮られることのない風が、わずかな潮の香りを運ぶ。東日本大震災で夫の允幸(よしゆき)さん=当時(73)=を亡くした河野和子さん(76)は9日、陸前高田市気仙町今泉地区にようやく完成した高台団地「高台3」で、息子2人と暮らす新居の地鎮祭を行った。
まだ、周りに家は1軒もない。スーパーも、郵便局も、コンビニエンスストアもない。「ここに戻る人は、よほど我慢強く、忍耐強い人よ」。苦笑いしながら、喜びをかみしめる。

かつての今泉は、家々が気仙川に寄り添うように並ぶ集落だった。藩制時代は仙台藩が大肝入(おおきもいり)を置き、鉄砲隊の伝統を受け継ぐ住民は誇り高く、一方で裏表がなく陽気だった。住民は「お互いさま」と助け合い、けんか七夕まつりや地域の運動会に一丸で取り組んだ。
復興事業で今泉は六つの高台団地とかさ上げ地、災害公営住宅に分かれ、隣同士が遠くなった。さらに市が昨年12月に行った意向調査では、今後引き渡しが本格化するかさ上げ地18・7ヘクタールのうち、8・7ヘクタールの地権者が売買や賃貸を希望。多くの住民が今泉の復興を待ちきれず、よそへ移った。
はるかに続く高台団地を見渡すと、「広くなって人が減り、まちが薄くなってしまった」とため息がこぼれる。時折、プラスチックの保存容器に煮しめや炊き込みご飯を詰め込み、家族を亡くした元住民を回っているが、その距離は遠い。
允幸さんが宮司を務めていた諏訪神社に駆け上がり、津波に沈む今泉を見た日から7年11カ月。「姉歯橋が渋滞で動けない」。家に向かっていた允幸さんとの電話がぷっつり切れた直後、壊れて流される姉歯橋を見たあの時から、長い歳月が孤独を育ててきた。
2011年7月に入った同市竹駒町の相川仮設団地の住民も、被災者は数えるほどになった。大半は入れ替わりが頻繁な復興工事の関係者らで、顔も名前も分からない。駐車場には福井、長野、八戸と全国のナンバーが並び、不安も感じる。
だが、できる限りあいさつを交わし、出歩いて話に耳を傾けて人とのつながりを保ってきた。説明会で「工期が延びる」と聞いても、復興の日を夢見てきた。
今は、ただただ新居の完成が待ち遠しい。料理も洋裁も、避難生活で覚えた小物作りも、震災前に熱中していた大正琴も、みんなでやれる日が楽しみだ。
「家が建ったら、今泉に戻ったら、母ちゃんたちに声をかけて、昔のにぎやかな今泉を取り戻していく」。孤独は、間もなく消える。
(文・写真 報道部・太田代剛)
賢治の言葉
私のいくところは、こゝのやうに明るい楽しいところではありません。
けれども、私共は、みんな、自分でできることをしなければなりません。
気のいい火山弾より抜粋