2019.02.01

あしあと(7)兼沢 幸男さん(大槌)

祖母と母の思いを受け継ぎ、古里で生きる(後列右から)兼沢幸男さん、妻華奈さん、長女心海さん、(前列右から)長男颯介君、次女椛心ちゃん一家=大槌町大槌(撮影データ=200ミリF4、250分の1秒)

祖母・母の地元愛継ぐ

 昨年1月23日、東日本大震災で犠牲となった母兼沢幸子(さちこ)さん=当時(53)=の誕生日に、祖母古沢リャウ(りょう)さんが89歳で息を引き取った。年を取ってからも元気で、安らかな旅立ちだった。

 「お母さんが迎えてくれたと思う。今頃はきっと、天国で仲良くしている」。一周忌を終え、大槌町大槌の会社員兼沢幸男(ゆきお)さん(34)の思いは、より確かなものとなった。

祖母古沢リャウさん(左)と母兼沢幸子さん(右)。仲の良い親子だった(撮影データ=35ミリF2、30分の1秒)

 幸子さんは震災の地震の後、同町大町で1人暮らしをしていた実母のリャウさんを避難させようと車で向かい、行方不明になった。

 リャウさんは幸子さんが来る前に隣人と避難していた。目撃証言から、幸子さんがリャウさん方に着いたのは津波襲来とほぼ同時とみられ、逃げずに幸子さんを待っていたら2人とも被災した可能性が高かった。

 それでもリャウさんは悔やみ続けた。どこに行っても、誰に会っても「娘は私のせいで亡くなった」とざんげし、幸男さんが「そんなことないから。ばあちゃんのせいじゃないから」とどんなに諭しても、心に刺さったとげが抜けなかった。

 震災時、貨物船の船員だった幸男さんは、茨城県の鹿島港で荷役中だった。船は津波を避けるため即座に出港し、その後原発事故の放射線や漂流物を避けて漂流。九州まで南下してやっと寄港し、国立宮古海上技術学校時代の友人の助けで16日ごろ大槌町に戻った。

 古里は跡形もなく、家族は釜石市に避難し、親類は疲れ切っていた。遺体安置所を回り尽くしても、幸子さんは見つからなかった。

 約2カ月後、「母を見つけるまで大槌を離れられない」と船会社を退職。以前務めていた宮城県塩釜市の船会社から「いつでも戻ってこい」と声を掛けられたが、「2年間待ってほしい」と頼み、地元のガス会社でアルバイトを始めた。

 長年離れていてよく知らなかったが、リャウさんは消防団など多彩な地域活動に参加し、地元を盛り上げてきたことを教わった。母も古里を愛していた。復興が進まぬ中で「自分も地元に携わりたい」という思いが日増しに募った。

 2年後、塩釜の船会社から再度誘われた時「ずっと忘れず気に掛けてもらい、言葉がないほどありがたかった。だからこそ、ちゃんと決めねばならない」と、大槌で生きる決心をした。

 ガス会社の正社員となり、地元の若手経営者によるはまぎく若だんな会(芳賀光代表)に入会。大槌、吉里吉里両学園のふるさと科の体験学習で海や山の恵みを子どもたちに伝えるなど、仲間と力を合わせてまちおこしに励んでいる。

 「古里のために一生懸命生きた祖母や母の血が、自分や子どもたちにも流れている。2人の思いをここで受け継いでいく」と誓う。

(文・写真 報道部・太田代剛)

賢治の言葉

すべてさびしさと悲傷とを焚(た)いて/ひとは透明な軌道をすすむ

 春と修羅 小岩井農場より抜粋

 
~東日本大震災
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