あしあと(25)金野 雅さん(陸前高田)

亡き娘への思い今も
しばらく前から「仕事を辞めたい」と話していた。「東京で働きたい」と。家族が大好きで、専門学校を卒業すると迷わず実家に戻ってきてくれたまな娘が、離れていきそうな気がした。
東日本大震災で長女の医療事務員照代さん=当時(25)=を亡くした、陸前高田市米崎町の金野雅(ただし)さん(70)は、今も悔やんでいる。当時、東京行きに強く反対していた。

照代さんの遺体は、震災の2週間後に見つかった。家族と一緒に、市内に住む照代さんの交際相手が懸命に捜してくれた。
後になって、2人が結婚を約束していたこと、春から一緒に東京で働いて結婚資金をつくろうとしていたこと、結婚したら共に両親のいる陸前高田で暮らそうと夢見ていたことを教えてくれた。
3人きょうだいの末っ子で、一番かわいがられていると知っていたから、言い出せなかったのかもしれない。寂しがる親の気持ちを思いやり、故郷での自立を目指していたのだろうけれど。
「後から聞かされることばかりいっぱいあって。気持ちの優しい子だったから」。妻のトエ子さんが涙を拭う。
毎年3月11日になると、幼なじみが欠かさず弔問に訪れ、仙台市の専門学校の同級生が花を贈ってくれる。「ありがたくて涙が出る」と深く感謝している。
ただ、毎年同級生が一人、また一人と結婚し、子どもを授かっていく姿を見るたびに「照代も今ごろは」と思ってしまう。
陽気で小学校のころからそろばんに励み、高田高では吹奏楽部でトランペットを立派に吹き、就職後はディズニーランドへの旅行を楽しみに働いていた。
トエ子さんが夜勤の日は大船渡市へ送り迎えし、父の日にはパジャマや財布などのプレゼントを欠かさず贈ってくれた、何の罪もない娘の人生。「なんか、ふびんで」と、思いが込み上げる。
今秋、震災前から「家族一緒に暮らそう」と夢見てきた新居が完成した。毎朝真新しい仏間で手を合わせ「テルがいればなあ、いればなあ」と繰り返す。
10月の台風19号では、畑のリンゴの木がなぎ倒された。災害は毎年のように起き、そのたびにどこかで大勢が被災している。あの痛みと教訓は、どこまで伝わっているのだろうか。
「家族にしか分からない、死ぬまで消えない悲しみがある。何を言っても分からないかもしれないが、家族が一人でもいなくなるとどんな思いをするか、みんなが考えて備えてほしい」
照代さんのように輝く海へ、願い続ける。
(文・写真、報道部・太田代剛)
賢治の言葉
おまへがたべるこのふたわんのゆきに/わたくしはいまこころからいのる/どうかこれが兜率(とそつ)の天の食(じき)に変わつて/やがてはおまへとみんなとに/聖(きよ)い資糧(しりやう)をもたらすことを/わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
春と修羅 永訣(えいけつ)の朝より抜粋