2019.12.16

あしあと(26)三浦 道子さん(千葉・袖ケ浦)

九死に一生を得た東日本大震災から8年半後、台風15号で再び被災した三浦道子さん。地域に溶け込み、助け合って生きる=千葉県袖ケ浦市神納(撮影データ=50ミリF1・4、2000分の1秒)

再び被災、生きた備え

 9月9日未明、台風15号が千葉県に猛威を振るった。最大風速23・2メートル(木更津)の嵐の中で、1人暮らしのアパートの明かりがぷっつりと消えた。

 雨戸のない窓は目張りしておいた。ろうそくも食料もある。自らに「慌てないこと」と言い聞かせ、ラジオの情報に耳を傾けた。

台風15号の被災から3カ月を経てもなお、屋根が壊れたままの商店や民家が残る千葉県袖ケ浦市(撮影データ=50ミリF8、125分の1秒)

 千葉県袖ケ浦市神納の三浦道子さん(79)にとって、停電の暗闇は大槌町で夫正雄さん=当時(82)=を亡くした東日本大震災以来。被災後、息子たちを頼って大槌を離れた後も、決して欠かさなかった災害への備えが生きた。

 アパートは4日間停電し、うだるような暑さに苦しんだ。一方、道路を1本挟んだ目の前の地域は配電系統が違うためか通電しており、スーパーも営業。日常と非日常が混ざり合う、不思議な被災地だった。

 北海道今金町で生まれ、戦後南富良野町へ移った。中学校を出ると下宿して帯広市の看護学校へ進み、准看護婦として東旭川町の病院に就職。「蛍ちゃん」のように生きてきた19歳の頃、知人の世話で縁談がまとまり、たった一人で大槌町にやってきた。「若いってすごいね」と振り返る。

 最初は独特のなまりに苦労したが、新日鉄釜石に勤めていた正雄さんとの間に2男を授かり、静かに暮らしていた。一緒に大槌町で一生を終えると思っていた。

 地震が起きると、一緒に近くの江岸寺へ避難した。腰と膝が悪かった正雄さんを寺の中に残し、外で避難者を手助けしているところに津波が押し寄せた。

 渦を巻く真っ黒な津波にのみ込まれ、海水を飲み、もがいている間に顔が水面に出た。鎖骨が折れていたが、激痛をこらえて漂流する畳によじ登り、流されるうちに凍えて気を失った。

 翌朝、目を覚ますと町内の高齢者施設のベッドの上だった。「よく生きたね」と声を掛けられ、その後避難所の名簿に正雄さんの名前がないと知らされた。見知らぬ天井がにじんだ。

 袖ケ浦市に避難して骨折などの治療を受け、息子たちと暮らし始めたが、心身の傷は深かった。おかずを作っても味がおかしく、掃除も満足にできない。毎日普通にこなしていた家事ができず、すぐに疲れてしまう。「私、幼稚園児になったのかしら」と悩み「このままでは死んでしまう」と心が冷え込んでいった。

 地元のシニアクラブに入ったことが救いになった。メンバーの出身地は地元のほか九州や新潟などさまざまで、気さくに接してくれた。1人暮らしを始め、書道や手芸、合唱などを楽しんでいる。心が落ち着くのに6年ほどかかった。

 台風15号では停電していない地区の仲間が助けてくれた。「袖ケ浦は安心だと思っていたけれど、どこにいても災害は起こり得ると思い知らされた。油断せずに備え、助け合うことが一番大切ね」とかみしめる。

(文・写真、報道部・太田代剛)

賢治の言葉

上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。

 柳原昌悦への手紙より抜粋

 
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