あしあと(24)舘鼻 春雄さん(釜石)

花咲く古里へトライ
花びらに赤い縁取りがあるコスモスを、丹精込めて育てている。東日本大震災で流失した自宅跡に芽生えた花から種を取り、仮設住宅の通路に植えて増やしてきた。写真1枚残らなかったかつての平穏の面影を残す、たったひとつのもの。

舘鼻春雄さん(67)が避難生活を送る釜石市栗林町の仮設団地で暮らす被災者は、わずか2世帯。当初は80世帯以上が助け合って過ごしていたが、一人、また一人と生活再建を果たし、巣立っていった。コスモスをめでる人も減った。
自宅があった同市鵜住居(うのすまい)町の復興事業が2年遅れ、建設業者の人手不足も重なり、自宅の再建が延び延びになった。新居完成は来年の見通しで「ここまでくれば焦っても仕方ない。大工も知り合いで、事情は分かる。『俺は最後でいい』と言ってある」と笑う。
津波の夜、市内の職場から鵜住居に戻ると、知り合いの看護師が地面にひざまずき、鬼の形相で心臓マッサージをしていた。自分はプロパンガスが爆発するごう音が響く中で次第に感情を失い、気がつくと「あはは、あはは」とつぶやきながらがれきの中を歩き回っていた。
コスモスに囲まれた自宅は跡形もなく、姉の初子さん=当時(65)=と兄重雄さん=同(61)=が車ごと流され亡くなっていた。
あれから間もなく8年8カ月。復興の長期化とともに地域から人が離れ、祭りのみこしの担ぎ手すら足りなくなった。数年間は復興事業を担う都市再生機構の職員に助っ人を頼んでいたが、復興が終わればいなくなる。そんな中でラグビーワールドカップ(W杯)が開かれた。
最初は開催に反対だった。「そんな金があるなら復興に使うべきだ」と思ったが、日増しにまちが盛り上がっていく様子が、昔の釜石に重なった。
全日本選手権7連覇を果たした新日鉄釜石ラグビー部で活躍した故洞口孝治さんは、釜石工高の自慢の後輩だった。「体は大きいが心優しい男だった。すっかり有名になってからも、俺たちのことを先輩として立ててくれた」と思い出す。
地元開催のチケットは取れなかったが「釜石がまちを挙げてラグビーに沸いた、あの日の熱が戻ったようだった。釜石が復興したという実感があった」と、釜石鵜住居復興スタジアムを誇らしく見上げた。
祭りの後は静寂がやってくる。W杯をばねに立ち上がろうと、釜石大槌猟友会の会長としてジビエ(狩猟で得た天然の野生鳥獣の食肉)を生かした特産品開発を模索しているが、東京電力福島第1原発事故で飛散した放射性物質の影響で、商品化のめどは立たない。
震災の闇は深く長い。「新居ができたら植えるんだ」と花咲く新たな古里を思い、コスモスの小さな種を集め続ける。
(文・写真、報道部・太田代剛)
賢治の言葉
ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから
銀河鉄道の夜より抜粋