26歳の短い生涯を駆け抜けた石川啄木は一男二女をもうけたが、どの子も父親の年齢まで生きられなかった。特に長男の真一は生後1カ月に満たずこの世を去った

▼啄木は友人の宮崎郁雨への手紙に「真白なる大根の根のこゝろよく肥ゆる頃なり男生れぬ」と誕生の喜びをしたためたが、1910(明治43)年10月27日、病弱だった真一は亡くなった

▼夜勤を終えた啄木が帰宅したのは、真一の脈が途切れた直後。体はまだ温かく医者を呼び注射を打たせたが、反応はなかった。啄木は郁雨に「僅か二十四日の間この世の光を見た丈にて永久に閉ぢたる眼のたとへがたくいとしく」と悲嘆を吐露した

▼当時は第1歌集「一握の砂」出版の準備を進めていた。「子供の生れた日の朝に本屋に渡した歌集が、葬式の晩に見本組が出来て来た」(郁雨宛て書簡より)。歌集には真一を悼む短歌8首を収めた

▼そのうちの一首「底知れぬ謎に対(むか)ひてあるごとし/死児(しじ)のひたひに/またも手をやる」からは子の死が信じられない様子が伝わる。時に妻子を顧みなかった啄木だが歌に深い悲しみを刻んだ

▼幼児虐待が後を絶たない現代。最近は親がエアガンで1歳の子を撃つという耳を疑う事件も起きた。啄木の時代よりも医療や教育は整ったが、子どもへの思いは後退したのではないかという思いにとらわれる。