「(賢治は)将来、啄木ほど有名になる可能性がありますか」。そんな質問に、詩人の草野心平は困った。宮沢賢治の没後に発刊した全集を何とか売りたい、と在京岩手の人々に相談した時のことだ

▼「あります」と答えたものの内心、確信はない。「可能性があるなら、応援してもいいだろうけど…」と質問者。全く無名の作家の本を売る。その支援を、同じ岩手出身の人から得るのさえ楽ではなかったらしい

▼心平の命日のきょう、全集発刊の労を思う。賢治を世に出した功績者だが、当時は売れる見込みはない。出版社の命取りにもなりかねない。それでも諦めなかったのは、「いつか必ず読まれる」の一念だったろう

▼そういう話を新鮮に感じるのは、あまりに目先の利を追う時代だからかもしれない。企業や大学では基礎研究より「実利」が重んじられる。高校の国語教育も、3年後は教養より「実用」に重きを置くという

▼今は何の富も生まないが、いつか必ず役に立つ。そう考える余裕が社会から失われて久しい。目先の利を追う時代だったら、賢治が世に現れることもなかったのだが

▼「同時代には、近すぎて全貌が目に入らない。でも100年、200年後には拝まれる人だろう」。金田一京助はそう賢治を評した。100年の時を経て、本当の価値が光を放ち始めるものもある。