2019.01.24

あしあと(6)中村 智子さん(大槌)

震災前と同じ場所に再建した本設店舗で、米こうじの製造再開を目指す中村智子さん。町民みんなの健康を願う=大槌町末広町(撮影データ=127ミリ、F4、125分の1秒)

のれんに誓う恩返し

 常に和のこころを。東日本大震災で亡くなった父後藤常平さん=当時(60)=と母和子さん=同(59)=の思いを受け継ぎ、大槌町末広町の後藤商店が震災前と同じ場所に復活した。代表の中村智子さん(39)は、新店舗のキャッチコピーに両親の名を1文字ずつ選んだ。

 震災4日後、出先の釜石市から戻って目にした故郷は燃え尽きていた。煙と潮の混じった臭い。両親の遺体はDNA型が分からず、販売業者の協力で遺品の首飾りの販売ルートをたどり、他の購入者全ての生存を確認して身元を特定した。

両親の遺品の髪飾り(右)や首飾り(奥)と、流失した銭湯の浴槽を撮影した携帯電話。代々築き上げた後藤商店は何もかもなくなった(撮影データ=50ミリ、F1・2、60分の1秒)

 何なんだ、この世界は。朝、夢でもうそでもないことに気付くたび、死んだ方が楽と思えた。

 本県は古くから軒下にみそ玉をつるすみそ造りが盛んで、米こうじは家庭の必需品だった。後藤商店は代々受け継ぐ米こうじ造りを大正期に法人化したと伝わる。戦後は銭湯玉乃湯の経営やプロパンガス販売も手掛け、地域に親しまれていた。

 間口が狭く奥に長い昔ながらの店で、殺菌のため床に灰をまき、こうじ菌を仕込んだ杉製の木ぶたをわらで保温する。常平さんと和子さんは、日持ちしないが、健やかな生活を支える発酵食品として高い能力を持つ「板こうじ」を守り続けてきた。

 同町は避難勧告も出ぬまま被災し、壊滅。その後の町民の暮らしは苦しかった。避難者はもちろん、津波を免れた家も停電復旧のめどが立たず、プロパンガスが生命線。50軒ほど残った顧客を回ると、「よく来たな」「信じて待ってたぞ」と声を掛けられた。

 家族経営だった後藤商店の厳しさはみんな分かっていた。他社の誘いを受けてもカセットこんろでしのぎ「後藤商店は必ず来る」と固辞してくれていた。

 「私、頑張らなきゃ」。涙があふれ、消えそうだった心の炎が戻った。「4月までに必ず、必ず届けるから」と約束し、仕入れ先の協力を得て営業を再開した。

 当時31歳。震災当日まで両親に頼っていた商売は甘くなかった。いい人も、悪い人もいた。「私なんか、生きてる意味ない。早く死ななきゃ」。黒い考えが頭の中をぐるぐる回った。

 でも、毎月集金で顧客を回ると「頑張れよ」「大丈夫だから」と励ましてくれた。みんな、お父さんやお母さん、じいちゃんやばあちゃんのようだった。「お客さんたちがいたから、私は今生きていられる」

 震災8年を前に完成した小さな本設店舗で、米こうじ造りの再開に向けた準備を進めている。両親が地道に磨き上げ、目に見えない信頼を得ていた発酵食品の力をよみがえらせ、みんなにずっと元気で長生きしてほしい。

 とてもありがたかったから、心から願っている。

(文・写真 報道部・太田代剛)

賢治の言葉

もしあなたがほんたうに成功ができるなら、それはあなたの誠意と人を信ずる正しい性質、あなたの巨(おお)きな努力によるのです。

 書簡 1925(大正14)年4月 杉山芳松への手紙の一節

 
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