1918(大正7)年9月29日、100年前のきょう、盛岡市出身の原敬による日本初の本格的な政党内閣が成立した。初代伊藤博文から数えて19代、正味10人目にして初めて、侯爵や伯爵といった爵位を持つ華族以外から選ばれた「平民宰相」だ。

 もっとも維新以前の出自をたどれば、原は祖父が盛岡藩の家老加判役を務める上級武士の家系に生まれた。原より家柄が上と言えるのは、公家出身の西園寺公望ぐらい。長州や薩摩、佐賀の下級武士の出が大半だ。

 原は首相になるまでに内務相を3度も務めている。爵位を得て当然の立場だが、そうした動きが出る度に周到に断り続けた。21年11月4日に凶刃に倒れた後、授爵の話が持ち上がった時も、夫人は「故人の遺志」として断固拒否したと言われる。

 戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられた盛岡藩出身の原にとって、いかに天皇の名で授けられるものであろうと、薩長を中心とする藩閥政府と同列で爵位を受けるのは意地が許さなかったに違いない。原が今も「平民宰相」と呼ばれ続けるゆえんだ。

 爵位や銅像の建立といった派手な行いは嫌ったとされる原だが、盛岡市内丸の県公会堂前にある胸像は原自らが制作を認めたものだと、同市・原敬記念館の中野千恵子学芸員に教えられた。

 制作者は、高知・桂浜の坂本龍馬像で知られる同県生まれの本山白雲だ。白雲の申し出を受け、スケッチに応じたのは暗殺される2年前。銅像の原型が完成したのは、その4日前だったとか。原に見せたら大変喜び、自ら「原敬」と署名も寄せたらしい。

 その胸像が、郷里で今も市民、県民を見守る経緯には、暗殺された年の2月に遺書を書き残していたというエピソードとも相まって予感めいたものを感じざるを得ない。

 胸像は1951年の没後30年式典に合わせて作られた。中野さんによると、吉田茂首相(当時)は、原が平和外交を志向して軍部の増長を懸念していたことなどを挙げ「多くの人々が『原が生きていたら…』というのも分かる」との趣旨の一文を寄せた。

 その吉田が手元に置いたという「原敬日記」は今、自民党総裁室にあるという。さらに幹事長室には、原が座右の銘とした「宝積(ほうじゃく)」(人に尽くして見返りを求めない)という仏教用語の直筆の扁額(へんがく)が飾られている。

 本格的な政党政治は利権絡みの汚職など、今に通じる政治課題も誘発したが、原自身の清廉潔白ぶりは後世の認めるところ。自民党政治の源流にあるとも言われる原の「宝積」に、後進はどれほど学んでいるだろう。