昭和天皇の侍従を務めた故小林忍氏の日記は、昭和天皇の晩年が自らの戦争責任を巡る苦悩とともにあったことを印象づける。これが平成最後の「夏」に世に出た意味を思わずにはいられない。

 日記は現皇太子を「浩宮さん」と書き、昭和天皇の病状に関して「案外持ちこたえ新嘗祭までは大丈夫という予想も出ている」とか「兪今度こそはという時期にきている」といった記述も見える。物おじを感じさせない書きっぷりは、その内容が真実であることの証左だろう。

 昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記されているのは、1987年4月7日の欄。この年の2月に、弟の高松宮を亡くしている。

 具体的に、どんな形で戦争責任の問題を考えておられたのか分からない。だが敗戦を挟み、現人神と称される絶対的な存在から国民の象徴へと立場が変わる中で、弟との死別というつらい出来事に積年の思いが胸を突き上げただろうことは想像に難くない。

 小林氏の侍従就任は74年。翌75年は戦後30年の節目に当たり、昭和天皇は9月に初めて米国を訪れている。帰国後は、日本国内での初の記者会見に臨まれた。

 この際、被爆地広島の放送記者に「戦争終結に当たり、原爆投下の事実をどう受け止めるか」と問われ「やむを得ない」と語ったことが波紋を広げた。11月24日の日記には「御訪米、御帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさっており-」とある。

 79年には、戦後占領下に昭和天皇が、側近を通じ「米国が沖縄の軍事占領を継続することを希望する」と占領国側に伝えていたことが、米公文書で判明。「沖縄を切り捨てた」との批判を受けた。

 戦争末期、激しい地上戦に襲われた沖縄への昭和天皇の思いが特別だったのは、そうした経緯もあってのことだろう。訪米に当たり、事前に沖縄に行くことを強く望んでいたという。だが後にも先にも願いはかなわなかった。

 第2次安倍政権下の2013年4月28日に催された「主権回復の日」式典に、沖縄は強く反発した。来年は元号が変わり、戦争の記憶はますます遠くなって行く。

 国家の意思を体現する立場で開戦詔書に署名している以上、時の天皇に戦争責任がないとは言えまい。民主主義国家日本が次に戦争をするとすれば、それは政治が権力行使の根拠とする国民の意思に帰結する。昭和が遠くなるからこそ、「記憶」を次代につなぐ努力は重みを増す。